京橋警鐘台についてと文化財申請について−その二
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利吉の建てた警鐘台は、確認できるものだけで4基が現存する。この中で京橋警鐘台は最大規模であり、四脚の大型警鐘台の中では最も古い。なお、京橋警鐘台の「大正十一年」銘の警鐘は、同じものが複数の警鐘台に架けられていたらしく、利吉が大正11年、最初に県庁前、専売局前に建てた際にある程度まとめて鋳造されたものと思われる。

3,岡山市内の山形鋼製警鐘台
 山形鋼(アングル)製警鐘台は構造が単純であり時期的な変化や特徴に乏しいほか、建築年代のわかるものもほとんどなく歴史的構造物として評価することが難しい。岡山市内では、大正10年代から建てられるようだが、その大半は昭和20年代〜30年代のもののようであり、戦前にさかのぼる警鐘台はごく少ないものと思われる。まだ数多くの警鐘台が現存するが、近年、老朽化や警鐘台自体が使われなくなり、解体が急速に進んでいる。
 坪田利吉の一連の警鐘台は、建築年代も判明、あるいは限定できることもあり、事実上岡山市における最古の一群といえる。その特徴は、比較的直線的な鋼材、デザインにある。特に、京橋警鐘台は望楼部分の手すりの構造・デザイン、屋根の構造、尖塔の飾りのデザインなども非常に単純であり、消防ホースを架けるフックなどの施設もついていない。同じ坪田利吉寄贈の警鐘台でも、警鐘に「昭和五年」銘(※3)のある南方警鐘台では、主脚がやや下に開くほか、梯子に対面する側の支脚がアーチ状に曲げられるなど、曲げた山形鋼が随所に用いられ、鉄塔全体の安定感も増したものとなっている。
 市街地以外では、岡山市一宮の吉備津彦神社参道、宮瀬橋横に立つ「一宮警鐘台」が高さ10m程度とやや小型の四脚の山形鋼製警鐘台である。直線的ながら塔半ばからやや外開きになる形態など市街地のものとは若干特徴が異なるものの、直線的なデザイン、京橋警鐘台と共通する構造やリング式ターンバックル部ブレース端部のダイス切りネジ溝が非常に稚拙な点など古いとみられる特徴を持つ。警鐘には「大正十年鋳造」銘があり、直接警鐘台の時期を示すかどうかわからないものの、近い時期に作られたものとみて間違いないと思われる。
 一方、旧市街周辺部や旧高松町、旧一宮町域の主要集落、足守、御津金川など旧町中心部に多くの警鐘台が残される。これらは望楼の手すり部分のデザインや屋根の形態、尖塔飾りに様々なバリエーションを持ちながらも、構造的には非常によく類似している。いずれも主脚が下にややに開く、支脚がアーチ状に曲げられるなど、新しいものとみられる特徴を備えているものの、形態的には南方警鐘台と大差ない構造となっている(※4)。しかしながら、建築年代がわかるものはすべて昭和二十年代〜三十年代であり、旧市街周辺部や周辺の郡部で山形鋼製警鐘台が整備されるのは、戦後になってからとみられる。
 なお、七日市警鐘台など三脚の警鐘台はさらに特徴が乏しく、特徴の変化などを見いだしがたい。建築年がわかるものがほとんどないため現状では印象でしかないが、七日市警鐘台などは平面六角形の望楼がのっているが、新しいものでは平面円形の望楼になる傾向があると思われる。

4,京橋警鐘台の評価
 京橋警鐘台は大正13年建築であり、岡山市で最も古い警鐘台の一群のものであると同時にその中で最大規模のものでもある。単純な構造のため特徴に乏しいが、直線的な構造・
(岡山市教育委員会文化財課から頂いた資料を原文のまま載せています。)

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