関北町内の沿革
町内会名の元になっている「関」という地名の由来については、よく分かっていませんが、慶長10年(1605年)の「備前国高物成帳(常陽記)」で幡多郷の中に「関村」の記載があり、中世以前に何らかの「関所」があったところと思われます。【注:「幡多2千年の歩み」(幡多学区連合町内会発行)から引用】
また、岡山大学が所蔵している「池田家文庫」の中に寛永15年(1638年)製とされる「備前国九郡絵図」にも上道郡の一村として「関村」が記載されていて、約400年前にはすでに存在していたことが分かります。
その後、明治22年6月1日の市町村制施行前の明治21年8月に、関村を始め隣接の赤田村、藤原村、沢田村、高屋村、兼基村、今谷村、及び清水村が合併して「幡多村」になり、昭和29年4月1日には隣接の高島村、財田村とともに岡山市に編入されています。
町内会については、昭和30年代までは「追分町内会」のように小字単位で結成【注:「幡多2千年の歩み」(幡多学区連合町内会発行)から引用】されていたようですが、徐々に統廃合をされていく中で「関町内会」ができたようです。
その後、学区全体で高度成長期以降の宅地開発が進む中で、昭和40年代中盤に「サニー団地町内会」が団地造成による新設、昭和49年4月1日に「関北町内会」が独立しますが、翌年には関北町内会から「関竜操町内会」が独立、昭和55年4月1日には関町内会から「関東町内会」が独立して、現在、関地内の町内会は6町内会となり総数2千余世帯となっています。
この中でも関北町内会は約700世帯で関地内では最大、幡多学区内でも4番目の規模の町内会となっています。
町内会の区域は、竜操中学校の東から北へかけての一帯で山陽本線が北端になります。区域内には「大手まんぢゅう」さん、「安全スイミング」さんなどがあり、地理的なイメージは浮かび易いと思われます。
以上、突貫工事で作成したので間違いも多いと思われますが、これらについての情報を提供いただけましたら、大変ありがたいと思っております。
新たな情報が入り次第、随時更新をしていきますので、よろしくお願いします。