操南公民館「寿大学 研修旅行」

投稿日:2019年11月7日

令和元年11月6日(水)晴天に恵まれて楽しい一日を過ごしました。

7時半出発18時半帰着の長旅でしたが、総勢46名元気に行って来ました。

ガイドさんとバス

旧嵯峨御所 大本山 大覚寺 京都市右京区嵯峨」大沢町4番大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である[1]。
時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている

京都御所

京都御苑の北西寄り、築地塀で囲まれた面積約11万平方メートルの区域が京都御所である。御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い長方形で、そこにはかつての内裏に属していた多くの建物と庭園が残っている。御所の建物は近世を通じ、天正(1591年)、慶長(1613年)、寛永(1642年)、承応(1655年)、寛文(1662年)、延宝(1675年)、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)の9度にわたり造営が行われている[5]。うち、天正度、慶長度、寛永度の造営は焼失に伴うものではなく、時の為政者(豊臣秀吉および徳川家)の威勢を示す目的のものであったが、それ以降の6度の造営はすべて火災焼失に伴うものであり、現存する御所の建物は安政度造営のものである。建物群は大きく3つのブロックに分けられる。南寄りには内裏の正殿であった紫宸殿、天皇が政務を執った清涼殿をはじめ、儀式や政務のために用いられた表向きの建物が残る。その北側、敷地のほぼ中央のブロックは、天皇の日常生活や内向きの行事、対面などに使用された内向きの建物群で、小御所、御学問所、御常御殿などがここにある。御所敷地のもっとも北寄りのブロックはかつての後宮だった場所で、多くの建物が取り払われているが、皇后御常御殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)をはじめ、皇后や皇子皇女などの住まいだった建物が残っている。建築様式は、表向きの建物である紫宸殿や清涼殿が平安時代の住宅建築様式である寝殿造を基調としているのに対し、これらの北にある内向きの建築群は書院造や数寄屋造の要素が強くなっている。ただし、表向きの建築物にしても外向きの建築物にしても寝殿造への復古は平面関係や障壁画や建具などについてであり、外観や立面関係、細部の建築方法は平安時代とは異なった江戸期の技術を用いたデザインとなっている。江戸期の庭園は、紫宸殿の南庭(「だんてい」と読み慣わしている)や清涼殿の東庭が一面に白砂を敷き詰めた儀式の場としての庭であるのに対し、小御所、御学問所、御常御殿などに接した庭は池と遣水(やりみず、流水の意)を中心にした日本式の庭である。各建物の内部は、それぞれの部屋の格や用途に応じた、さまざまの障壁画で飾られている。これらの障壁画には、狩野派、土佐派、円山四条派をはじめ、江戸時代末期の日本画壇の主要な絵師たちが絵筆を振るっている。京都御所は、平安時代の内裏とは位置が異なり、建物も江戸時代末期の再建であるが、建築、庭園、障壁画が一体となって日本の伝統文化の粋を今に伝えている[6][7]。
なお、以下の建築、庭園、障壁画の説明は、現存する京都御所(安政2年・1855年造営)についてのものである。

お楽しみ

令和2年5月22日(金)13時30分から15時寿大学開校式

「バスガイドさんが案内する模擬体験旅行 富士山 ・富士5湖

講師 バスガイド 岡村真美さん

岡山からはなかなか訪れにくい「富士山・富士五湖」の旅を」映像を見ながら模擬体験させて頂きます。楽しみです。

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