「ふるさと平井」シリーズ№32を掲載
投稿日:2021年10月1日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 32 p.231-237)
第6章 信 仰
人間は誰でも心の拠り所となるものを求め、信じ、祈って生きている。このことは昔も今も変わらない。また権力や富のある者も、日々の生活に汗する庶民も同じである。われわれの先祖も葦の生い繁る広野(こおや)を拓(き)り開いた時代から、黙々と日々の生活の安穏息災を願って何かを信じて生きてきた。その祈りの対象は自然であり、神であり、仏陀(ぶっだ)であり、また祖先の霊であったと思う。
この章では、ふるさと平井に残されている、われわれの先祖の祈りの対象について整理して紹介する。
1.神社·寺院
長い歴史の中では権力者の都合により、宗教が政治の手段として利用された悲しむべき時期もあった。藩政下のキリスト教弾圧や先に述べた日蓮宗不受不施派の禁教などがあり、また、寺院は幕府の宗門改(しゅうもんあらため)により「宗門改人別帖(にんべつちょう)」や寺請(てらうけ)制度で戸籍の管理など藩行政の一端を担ったことなどが挙げられる。
しかし、天災や疾病に施す手段のない時代に、人々は神の恵みを求めて神社に詣で、仏の慈悲にすがってお寺に帰依してきた。代々池田藩主の尊信する寺院もあれば、庶民の信仰を集めた神社やお寺もある。以下にこの地区に現存するお宮やお寺について、その由来や現状を記しておく。
尾佐無(おさむ)神社(井戸神様)
東山峠にある小さなお宮で、新しく開通した県道岡山ー西大寺線と古い街道に挟まれた急傾斜の崖に鎮座している。社殿は小形の本殿と吹き放しの拝殿があるだけで、これに石の鳥居が1基建っている簡素な構えである。新道の通じる前までは境内に清水が湧き井戸神さまとも呼ばれ、ご神水をいただきに参詣する者が多かったが、今は枯れて井戸枠だけを留めている。
祭神は八衛比古神(やちまたひこのみこと)・八衛比売神(やちまたひめのみこと)・久那斗神(くなとのみこと)の3神で、別に素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祭る。沿革はよくわからないが、延享年間(1744~1747)清水の脇へ小祠(し)を置いて水神として祭ったという。この清水は眼病に効く有り難い水とされていた。往来安全の神社としてこのような場所に祭られたものであろう。旧社格は村社である。
毘沙門(びしゃもん)堂
操陽南山の南斜面の中腹、最近できた操南台団地のすぐ下の辺りの少し開けた場所に小さな祠(ほこら)があり毘沙門天が祭ってある。毘沙門天は別名を多聞天(たもんてん)といい、四天王の1つで福徳施与(せよ)の神といわれている。
この社(やしろ)の創立は操陽北山の仏心寺から明治19年(1886)6月3日、当地に勧請(かんじょう 遷してお祭りすること)してお祭りしたと伝承されている。かっては近郷近在から広く信者を集め、5月3日の祭礼の日には参拝の人が列をなし、境内には露店などが並び賑わっていたという。
現在は湊町内会の方々によって保存され祭られている。
大山祇(おおやまつみ)神社・荒神社(通称 お荒神さま)
西湊の中央、山裾にあり「お荒神さま」といって、昔から多くの人に親しまれ、信仰されている。この荒神さまについては次のような話が伝わっている。(故妹尾虎夫氏談、岡山市史より)
「昔、この村に熱病が流行して家々は戸を閉めてしまい、生業も休んでいたところ1人の白髪の老翁が現われ、なんでこんなにひっそりしているのかと聞いた。その事情を話すと『それは気の毒だ、天の荒神を祭れば熱病は退散する』と告げて去った。村役にそのことを話して、すぐに探してみたがもう翁の姿はなかったが、村人は荒神を祭ることにした。これが荒神の縁起であり、荒神さまは白髪の老翁だと言われている。」と。
お祭りした場所は今の毘沙門堂の東約50mの現在「荒神の元」と呼ばれているところである。また別にこの荒神さまのところへ網浜の山上にあった大山祇神社を寛文7年(1667)に勧請(じょう)したとも伝えられている。網浜からお遷(うつ)しするについて次のような話も残っている。(故妹尾久太郎氏談)
「ある日1人のお百姓が畑仕事に疲れ、畦に腰を下ろして一休みしているうち、ついうとうとと居眠りをした。すると白髪の翁が来て『ここへ網浜の大山祇神社を遷してお祭りすれば作物はよくでき、村人みんなが幸せになれる』と言った。 ハッと目を開いてあたりを見回したが誰もいない。早速村の人達にそのことを告げ、皆んなで探し回ったが遂に見つけることはできなかった。『これは神のお告げに違いない』ということになり、翁が立っていた場所へご遷宮することになったという。」
同じような話ではあるが、湊の荒神さまには昔から大山祇神社と荒神社が共に祭られているので、その由来の説明として紹介しておく。その後暴風雨で社殿が壊れたので、貞享4年(1687)現在地に遷宮したという。
大山祇神社の祭神である大山祇命は諸山神を統(す)べて山を主宰する神であるが、池田光政の神社整理の方針により正徳2年(1712)綱政の時、池田藩崇敬66社の中に名を留め、大多羅へ寄宮(よせみや)として合祀(し)された。
お荒神さまはその後も村の氏神として祭られたらしく、境内には「富村」と刻まれた鳥居(天保15年 1845)や倉田村の文字が残る手洗い石(安政2年 1855)などが残されている。恐らく新田地帯に入植した人達が奉信して寄贈したものと思われる。また、荒神さまのトーヤの行事は古くから行われていたようである。
現在、拝殿正面の祭神の額に大山祇神社と並んで荒神社(他2神)とある。これは明治の世になって信仰が自由となり大山祇神社が再び祭られるようになったためと思われる。更にその後の講中に伝わる話によると、明治12年(1880)岡久行氏が、祠掌(神主)になった時、玉井宮の末社である網浜新屋敷の荒神社を勧請したということである。荒神社の祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)・奥津比古神(おきつひこのかみ)・奥津比売神(おきつひめのかみ)の3神で、一般的にはかまどの神と言われるが、岡山県など西日本各地では地域の守護神として祭られている。恐らく、山を司(つかさ)どる大山祇神社とこの荒神社を併せて、村の鎮守としてお祭りしていたものと思われる。なお、神官が不在になってからは、西湊の10数戸が玉井宮、他は石高神社の氏子となり現在に至っている。
裏庭には”おしめさま”と呼ばれている小さな祠(ほこら)が祭られている。意味ははっきりしないが、先祖神とか屋敷神とかいわれるものらしく、足の痛い人達にご利益があるという。
また、別にお稲荷さんを祭った祠や、かって清水の湧いていたと思われる井戸が残されている。
玉井宮東照宮
氏神として昔から旭東地区の人々の敬信を集めた東山に鎮座する神社である。豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)の3柱を祭る。社伝により由来・沿革を略記する。
往古は児島半島の東端、光明崎(今の米崎)に祭られていた。応徳2年(1085)頃、毎夜ご神光が海底まで達し魚が寄りつかなくなった。漁師達が困ってその由を神前に告げたところ、上道郡門田の山中にご神幣(しんへい)が立っているので、そこへ遷座せよというご神託があった。そこでこのご神託に従い幣立山(へいりつざん 今の玉井宮の少し東の山)に遷座した。その後はご神威が国内に輝き、領主をはじめ広く崇敬されたという。
正保2年(1645)藩主池田光政の命により東照宮が勧請(じょう)され、玉井宮は前の広場に移され、社殿すべて新しく造営された。藩政時代は池田藩の庇護により、備前国別格5社の1社に列せられ隆盛を極めた。
明治14年(1871)東照宮と合祀(し)され、玉井宮東照宮と称するようになり、以後氏子の篤(あつ)い敬神の念に支えられ、造営・改築・修理を重ね、昭和59年(1984)鎮座900年祭が盛大に行われた。平成元年(1989)1月未明の不慮の火災で、本殿(岡山市重要文化財)を残して他はことごとく焼失したが、直ちに復旧作業が進められ、平成4年10月には拝殿が、平成5年には参集殿が完成し、 現在は周囲の整備が進められている。
玉井宮はお正月の初詣・夏の輪くぐり・秋のお祭りと、私たち氏子にとっては親しみが深い。毎年7月の終りに行われるみそぎ祭り(輪くぐり)は、拝殿前の門に作られた大きな萱(かや)の輪をくぐって参拝し、無事息災・家内安全を祈るお祭りで、昔から大勢の人で賑わっている。また、毎年10月下旬の玉井宮例祭には、各町内毎に飾りたてただんじりを引き、鐘や太鼓ではやしながら備前太鼓唄(うた)を唄って町内を練り歩く。昔から今日なお続いている楽しい行事として地域に定着している。
石高神社
岡山市円山の旧県道岡山ー西大寺線を少し北へ入った小高い丘の上にある。旧富山村の村社であるが、湊地区(東湊と西湊の東地域)に多数の氏子を持っている。祭神は大名持命(おおなもちのみこと)と須勢理姫命(すせりひめのみこと)の2神で、格式のある広大な社域を持つ神社である。旧県道から数10段の古びた急な石段を登り山門をくぐると、広い境内の奥に時代を感じさせる拝殿・本殿などが整然と並び、すがすがしい神域をかもし出している。
何時頃勧請されたものかはわからないが、社伝によると、昔、今の地より北方の高倉山という山の頂に大名持命を祭った石高神社があった。又、別に西の岩崎という所に須勢理姫命を祭るお宮があった。この両社を併せて今の地(宮山)に祭り八幡宮と称し、多くの人の尊信を集めていたという。
古くは幡多郷の総鎮守産土(うぶすな)神(土地の守り神)であった。明治4年旧号である石高神社と改称し現在に至っている。
秋の祭日は毎年10月3~5日で、湊地区でも幡(のぼり)を建てだんじりや子供御輿(みこし)が町内にくり出し、賑やかにお祭りしている。
(つづく)
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