「ふるさと平井」シリーズ№18を掲載

投稿日:2021年3月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 18 p.130-136)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   7.旭川の改修

日本の河川は、地形の関係で大雨が降ると急に水量を増し洪水を起こす。岡山県は、雨の少ない地域だが、降雨季には、昔から洪水をくりかえしている。水の被害も甚大であるが、洪水で上流から運ばれてくる土砂が下流に堆積しいろいろな障害を起こしている。
この対策として、旭川水系でも、植林、護岸や堤防の補修、百間川の放水路など、治水事業が実施されてきた。明治維新後は山林伐採が自由になり、また砂鉄や鉄鉱石の採掘も盛んに行われ、そのため河川の荒廃がさらにひどく、洪本による被害が増してきた。
以下平井を中心に明治以後の河川改修の沈床(ちんしょう)と浚渫(しゅんせつ)、新しい堤防工事などについてまとめることにする。
沈床(水制 すいせい)
旭川下流の平井地区を中心に、上は網浜のガス会社付近から下は江崎の浜中辺(あた)りまで丁の字に割石を敷いた特異な工作物が見られる。オランダ人技師の伝えた粗朶(そだ)沈床工という方法で造られたもので、洪水のとき川の埋まるのを防ぎ、船の航路を確保するためのものだといわれている。この工作物を沈床と呼んでいる。
潮の満ち干(ひ)で見えがくれする丁の字沈床(ケレップ水制)は、どこの川にもあるというものではない。明治の始めから日本各地に造られたが、今はほとんど残っていない。旭川河口、東岸に完全な形で残されているだけで、治水事業の貴重な遺産といえる。
明治の沈床 明治の始めまでは、海上輸送による往来が盛んで京阪神や瀬戸内をはじめ、県北の物資や人まで旭川を使って城下町岡山の京橋へ集まっていた。明治10年頃から旭川下流は土砂による埋没が著しく、水運上放置できなくなった。明治13年、2度の洪水に刺激された県は、対策を協議し、他県の状況を調査して、同14年1月「オランダ工法による水制や護岸、粗朶(そだ)沈床工が最良である」との内容のくわしい報告書を発表し、大きな期待をよせた。
この年県予算2000円が計上され平井付近に水制工事が行われた記録がある。(旭川史)この水制というのは、岸や堤防を守るために水中に設置する工作物(沈床)のことで、水の流れを規制し水勢を弱める働きがある。この平井付近に行われた水制工事は、明治になって始めて行われたもので旭川河口の水制(沈床)第1号である。ところが、この工事の記録は何も残されていないので、他の水制工事や現在のようすから推測して記述する。

沈 床(ケレップ水制)

平井水制は、オランダ人技師のドールン、デレーケ、ムルデルなどが考案した、粗朶沈床工が行われたようである。粗朶(そだ 木の小枝)を束ねて水底に沈め、その上に割石を積み水中に築設した工作物で、オランダ語でケレップ水制という。
昭和の初めごろまで割石の下に粗朶が見られ、この割石と粗染の沈床に魚が多くいたという。地元では、旧沈床と呼んでいた。上平井から下平井須賀町内の中央付近までの間、川岸と平行に沖合いおよそ30~40mの水中に築設された。洪水のとき沈床から沖の流れは速くなり、自然的浚渫(しゅんせつ)によって本流部分の水深が深く保たれていた。また岸側の流れはゆるやかになり、土砂の堆積をはやめた。更に沈床が、この岸辺の土砂を沖に流さない砂防の役も果たしていたようである。
この広い砂州では、平井の名産蜆(しじみ)がたくさんとれた。上平井の辺りは昭和15年頃の改修工事で、砂原が浚渫されて、沈床の割石があまり見えないが下平井の辺りでは、引き潮のとき、砂州の水際に砂に埋もれた割石に旧沈床が認められる。
明治20年(1887)粗染沈床工事が旭川西岸の京橋下から浜野、福島に至る間で行われた。岸と平行して数10m沖合いに柵を設けて、土砂の流出を防ぐための沈床で、明治の浚渫工事では最も大仕掛けのものであった。ところが流れがゆるやかな河口近くでは、年々堆積する莫大な土砂によって埋没してしまった。
これより先、平井水制施行の明治14年(1881)オランダ人ムルデルの一行は、岡山県の招きで児島湾干拓調査に来岡、復命書を提出し、更に明治22年(1890)帰国の前年、弁命書を出している。その中で河道問題にふれ、水路確保のため丁の字沈床の必要性を述べている。しかし、地元岡山では、従来の沈床は埋没し、効果があまり期待できないことから、この提案は忘れられその後話題はなくなった。
昭和のケレップ水制 その後旭川に丁の字沈床(ケレップ水制)の工事計画が見られるのは、昭和8年に出された旭川改修工事概要でその中に「(前文略)…必要なる箇所には、護岸、床固、若くは水制工を施行し、流路の擾乱(じょうらん)を防ぎ…(後略)」とある。また旭川史の工事記録の中にケレップ水制を思わせる「平井水制縦1ヶ所、横19ケ所。着工年月日、昭和9年9月11日」とあり、昭和9年頃から平井で工事が始まっている。
しかし、詳細な工事記録は残っていないが、粗朶沈床工で丁の字に築堤したと思われ、昭和12、3年頃に完成している。京橋より下流の水路確保のために構築された丁の字沈床は、以後水深維持の役目を果たしており、今も平井を中心に19基が認められる。
オランダ人土木技師ムルデルが旭川改修のため、その必要性を提起してから実に半世紀が過ぎた頃、やっと丁の字沈床が完成したのである。
昭和29年には、上流にダムが造られ洪水による土砂流出が少なくなり、水深は保たれている。しかし近年、陸上交通の発達と海の玄関が京橋から岡南地帯へ移されたため、川筋を航行する船は少なくなった。
最近水の浄化もすすみ、次第に自然を取り戻してきている。建設省から「多自然型川づくり」が提唱されている今、生き物たちにやさしい丁の字沈床は、これから先も先人の苦労を読みとることのできる記念碑ともいえる。近年平井付近の砂洲では蜆拾いをする家族づれがみられ、沈床の上で釣りをする人を眺めるとき、先人の残した偉大な功績に思いをはせ、その英知に尊敬の念を抱くのである。
浚渫(しゅんせつ)
旭川沿いに住んでいた人々が今でも懐かしく思い出される音に川を行きかうポンポン船の音がある。ポンポンと焼玉エンジンの心地よい音に加えて長く響く船の汽笛も耳の奥に残っている。こんな音とは反対にガラガラと大きな音を同じ所で出し続ける変わった船があった。川底を掘る浚渫船である。
旭川史によれば、昭和5年から旭川改修のため、数隻の浚渫船が大活躍をしている。川底の土砂や岩石を掘り上げる浚渫船には、いろいろな形式があるが、旭川では初めのうちはバケットライダーと言われる機械を設備した船が使われていた。この機械は約1.5mもある鉄製の巨大な長方形のバケツが、帯状の鉄のベルトに、数10個取付けられ船上の高い櫓(やぐら)と川底におろした長い挺子(てこ)の間をぐるぐると回りながら川底の土砂を掘りすくっていく。櫓の頂上にある大歯車を越えたバケツは反転するときに、すくいあげた土砂を、受け樋へ移す。すべり落ちる土砂は、横づけされた土運(どうん)船(通称ドン船と呼ばれた)に積みこまれる。そのうち、土運船に新型の鋼鉄船が姿を現わした。 2、3艘がまとまって土砂を満載すると、ポンポン船の曳き船が土を積んだ鉄の土運船を曳航して埋立て現場に向う。この頃福島地崎が埋められていたらしく、埋立て現場に着くと船底を開いて一瞬の内に自力で投棄できるように造られている。

浚渫船と土運船

この浚渫船は運転を開始するとすべて鉄製のバケツ・ベルトであるから、川岸にいても思わず耳をおさえる程の大音響を出すうるさい船であった。その反面ユーモラスな形をした変わり船であった。初期の浚渫は、船舶航路の確保のため額が瀬付近から平井・三蟠方面にかけて流れの中心部を主体に行われた。明治期に造られた古い沈床の外を浚渫船がのろのろと移動しなら堆積している土砂を掘り上げていった。
昭和12、3年頃になると浚渫船も新型のグラブ式(掴揚式 かくようしき)といって土砂を掴(つか)んで掘りとるものや、ポンプ式などが登場し、浜野や平井砂洲で盛んに活躍をはじめた。そのため、平井バス停付近から上平井にかけては岸の近くの場所(沈床の内側)にスリバチ型の深みが点々と広がり、いつ崩れるかわからない危険な状態になっていた。
この項の冒頭に書いた川を行きかうポンポン船は、浚渫により旭川が水運を取り戻した昭和7、8年頃からのことである。石炭を満載した石炭船がガス会社の船着場へ出入し、早暁漁船が競うように七日市の魚河岸へ向っていた。また、高千穂丸や千代田丸など南備海運の客船が京橋と四国や瀬戸内の港を結んで活躍し、旭川が岡山の海の入ロとして賑わっていた。

(つづく)

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