「ふるさと平井」シリーズ№8を掲載
投稿日:2020年10月1日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 8p.60-64)
第3章 池田藩政下の平井
5.日蓮宗不受不施派の法難
すでに「妙広寺縁起」の項で述べたように、南北朝時代大覚大僧正によって始められた日蓮宗の布教は高弟日実(にちじつ)聖人に引き継がれ室町期以降にも備前地域では日実聖人の開基になる妙覚寺門流が主流となり、ますます法華信仰は拡充された。
近世初頭、妙覚寺貫主日奥(にちおう)聖人は、諸法供養を厳しく禁じる不受不施を唱えた。不受不施とは僧侶は諸法(他宗)からの布施供養は受けず、また信徒は諸法の僧侶や寺院に布施・供養を捧げないという法華宗の制戒のことで、宗教の純粋性・自立性を守り、唯一最高の教え、法華教が絶対的権威を持つというものである。
文禄4年(1595)豊臣秀吉は京都方広寺に大仏をつくり、千僧供養を行った。この時日蓮宗にも出仕の要請があったが、宗規を守り出仕を拒否する不受不施派と、権力の命ずるままに出仕する受不施派に二分して対立し、不受不施派の日奥聖人は妙覚寺を追われることになる。その後慶長4年(1599)日奥聖人は徳川家康に大阪城に呼び出され、受不施派と討論するが、節を曲げなかったため対馬流罪となった。
更に徳川幕府は寛文4年(1664)キリスト者禁止令を出し、弾圧を強行した。これと時を同じくして、翌寛文5年(1665)幕府は日蓮宗不受不施派に対し、今後寺領は三宝(仏・法・僧)への敬田供養として下すからと受領書の提出を求めたが、抗争して受領書の提出を拒んだ。以後、不受不施派の禁教・弾圧が始まる。加えて、備前池田藩では藩主光政の儒教尊信の立場から、寺院淘汰や神社整理が徹底的に行われ、日蓮宗不受不施派には特に厳しく断行された。寛文7年(1667)までに不受不施派の淘汰寺院は313寺、追放僧侶535人の多きに及んでいる。かくて信徒の中には表向き他宗を装い、内心では不受不施派を信ずる「内信」者になった者が多く、特殊な組織を作って地下に潜み、度び重なる迫害・弾圧を乗り越えていくことになる。
さて、こうした不受不施派の歩みの中で、平井地区の人達と同派とのかかわりについて触れてみる。
不受不施信仰のはじめ
古く源平合戦の頃、戦い利なく敗れた平家の残党10有余騎が操山西南の丘陵地に流れ着き定住した。(故吉田義政氏遺稿)戦いが終って出身地の信濃の国から家族を迎え、荒地を拓き、浅海に漁してひっそりと暮らしていた。時は戦国の世となり在郷土豪の影響を受け、日蓮宗に帰依し、以後、藩政期になっても為政者の宗教政策にも屈せず、集落全体が不受不施の信仰を貫き、同派の拠点として苦難の歴史を歩むことになる。
松寿庵
寛文期、徹底した弾圧を受けた備前地区では、いち早く内信者の組織化が行われ、信仰の拠点が信者の納屋などにひそかに作られた。平井地区にあっては春雄院日雅聖人により松寿庵という草庵が山の中腹の竹藪の中に開かれた。この庵の開基は延宝年間(1673~1680)ということである。以降歴代清僧の指導により、地域信仰の拠点として明治のはじめまでその使命を果たしてきた。庵は密生した竹藪の中にあり、付近には隠れ井戸や石垣なども認められ、捕吏の眼をそらすのに都合のよい内信道場であったことが偲ばれる。
法 難
矢田部六人衆の処刑 元町土手外の河原にあった柳原刑場の悲惨な史実である。和気郡佐伯町本久寺の住僧日閑聖人は蓮昌寺日相聖人の弟子で、師弟とも不受不施僧として追放された。日閑聖人は佐伯に帰り生家に隠れて同
派信者の指導に当たっていた。ある日密告があったためか、捕吏が踏み込んで日閑聖人をはじめ矢田部の信者、河本五兵衛・同仁兵衛・同喜右衛門、加部村の花房七大夫・松田五郎右衛門の6人を捕えて投獄、寛文8年(1668)6月19日、旭川原の柳原刑場で処刑した。更にその遺族全員 (28名)を国外追放とした。実に苛酷な処分である。柳原刑場の記録はこれが最初なので、恐らくこの頃できたものと思われる。またこうした不受不施派の断罪は、結果的には同派信者の結束を一層強固なものにしたのでなかろうか。
余談になるが、昭和42年矢田部六人衆処刑300遠忌に当たり、高さ3m余の万成石の殉教碑が平井地区の人達をはじめ関係者の手で完成された。この碑は平井ポンプ場西200mぐらいのところの旭川堤防下にあり、日学聖人の碑文が刻まれている。石碑の建立されている一角は常に清浄に保たれ、広く地区関係者の敬信を集め香煙の絶えることがないという。
日奥聖人の墓碑 延宝7年(1679)倉安川第2水門(平井1丁目専光寺の西)工事に使用する石材の一部は平井の山から切り出していた。たまたま笹山墓地にあった日奥聖人の大石塔が手頃であったので禁教者の墓石ということでもあり、現場へ担ぎ降された。ところが石工が細工をしようとすると手がすべって2度、3度と大怪我をする仕末に手をつける人夫がいなくなり放置されていた。ある夜、信者達は暗闇にまぎれて石碑を取り戻し、土中に埋めて隠してしまった。
明治のはじめ公許となってから掘り出し、更めて祭祀したという。碑面に傷跡が残っているのはその時のものだといい伝えられている。
法立 御藤(ごとう)吉五郎 天保9年(1838)大阪町奉行所の役人が西中島西屋(宿屋) に滞在して岡山藩の役人と共に不受不施派信者を探索していた。たまたま同所に宿泊していた平井村の富田直兵衛夫妻が信者であることを聞き、早速捕えて獄に投じた。これを聞いた御津郡金川の御藤吉五郎という人が、藩に堂々と直訴し、「私は不受不施の法立(ほうりゅう 注参照)である。藩は信者を罪人としているが信者はこの2人だけでなく村内すべてである。直兵衛は私が勧誘したのだから罪は私にある。私を罰して彼等を許して欲しい。例え首をはねられようとも私はかまわない」と申し出たという。藩は直兵衛夫妻を許し、吉五郎を捕え獄にいれ、翌10年(墓碑には天保9年とある。誤刻か)柳原刑場で斬罪に処した。彼は信者のために法立としての貴任をとり、自らを信仰のために捧げたのである。
(注) 法立とは法を立てる者、無籍者となって信仰を堅持する者のこと。
日義聖人の不受不施葬 降りて元治元年(1864)6月13日、日正聖人の高弟日義聖人は藩主池田茂政が狩に出かける途中を待ち伏せ、不受不施再興の直訴(じきそ)を行った。しかし直ちに捕われて獄につながれ、禁教を信じる大罪人として苛酷な拷問を受け、遂に唱名を大声で誦しながら自若として牢死した。遺骸は柳原刑場に捨てられた。その夜平井の信者は遺体をひそかに笹山に運び、四方を莚(むしろ)で囲み煙の出ないように木炭数十俵を使って荼毘に付し、不受不施葬を行ったという。
再 興
こうして250年に及ぶ長い不受不施派迫害の歴史も、釈日正聖人をはじめとする多くの人々の本派再興のたゆまぬ努力が実り、遂に幕を閉じる。即ち明治9年(1876)4月10日政府は再興を決議し、同12日教部省で公許を申し渡され、この日から白日のもとで布教が認められた。聖人は教部省からの帰途「朝な夕なこの一声をほとどぎす」と万感の想をこめて詠ぜられたという。再興に半生をかけた聖人の感慨を素直に感じさせてくれる句である。
釈日正聖人は晩年平井で多くの信者に見守られながら明治41年(1908)6月22日遷化(逝去)された。なお松寿庵は平井教会所として再興され更に松寿山奥聖寺として現代に至っている。
今、こうして不受不施派苦難の歴史を顧みるとき、迫害にもめげず、純粋に信仰を貫き通した人々の逞しささに畏敬の念を覚えると共に、信仰の自由が保証された今の世に生きる喜びと幸せを感謝したい。
(つづく)
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