「ふるさと平井」シリーズ№7を掲載

投稿日:2020年9月15日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№7 p.53-60)

          第3章 池田藩政下の平井

   4.用 水 路

祇園用水(昭和50年頃)

“ふるさと平井”を流れる用水は祇園用水と倉安川の2つがあり、昔から農業用水や生活のための水として重要な役割を果たしてきた。
平井地区では殆んどが祇園用水でまかなわれていたが、湊地区では倉安川やその支流、祇園用水の分流などが農村の生活を支えてきた。水道が普及し宅地化により農地が減少してきた現在、すでにその使命を終えた流路もあり、また、生活排水により汚濁の著しいものもあるが、なお農地を潤す身近な小川としてわれわれの生活に安らぎを与えてくれている。
祇園用水
この用水は平井地区では祇園用水のほか地蔵川と呼ばれ、下流では、東川・三蟠用水と言われている。
昔、旭川の祇園付近で取水した祇園用水は高島学区の八幡(やはた)樋で分流していたが、現在は旭川合同用水として旭川西岸、牧石の管掛け堰(せき)の水をサイフォン(伏越水路)で東岸に導き水源としている。
ここから南流して中島・八幡・穝・原尾島を潤し、国富に至り、地蔵川と名称が変わる。流域にお地蔵さんが多いからという説と、古くから旭川下流の分流に「地蔵分流」とか「地蔵用水」の通称が残っていたためという説がある。

底 樋 付 近

門田から網浜をぬけ操山の西をまわり、県道岡山ー玉野線の地下を潜り元町で平井地内にはいる。そこから南東へ約300mほどで倉安川と交わる。ここで底樋(そこひ)という地下の石積みのトンネルで倉安川の下を潜らせている。
この底樋では、樋門の操作で2つの川の水量を調節し、渇水や増水に備えている。南へ出た流れはゆるやかに東へ向きを変え、栄町北側から平井小学校北角に出る。ここから平井小学校の西側を南へ、そして県道岡山ー玉野線の下を南東へぬけ、フレスタ操南店の南側を少し東に流れ、南へ向きをかえながら下平井の古い家並みを縫うように流れる。かつて、この辺では川岸に石段が各戸に見られ、生活のための重要な水路であったことが窺える。またこの辺では集落の東を流れる川という意味で東川と呼んでいた。古い家並みを離れた流れは旧堤防沿いに南へ下り、川崎を通って三蟠地区へ至り、児島湾に注ぐ。延々20数kmに及ぶ用水で、田植えのときには下から順次樋門で堰(せ)いてはその上流の地区が行っている。
次に、この用水は分流され平井全域を潤しているので、分流について主なものを次にまとめておく。
①元町から底樋までの間で東へ分流する。倉安川の北の山際を流れ元上町・四軒屋の田畑を灌漑する。八反田堀とか北堀といわれている。
➁底樋から南へ100m程の所、県道岡山ー玉野線の上平井押しボタン信号の北で、南へ向けて分流する。県道の南、上平井の一帯を南東へ流れる。
➂栄町辺りで北へ向けて分流し、湊へ向う道路の南側を東へ倉安川と平行して流れ、四軒屋と湊の境いを南へ流れ下る。

用水概略図(数字は分流)

④平井小学校北角から東へ、旧三万坪の南東の地域を南へ流れる。
その他以前は下平井の地神さまの上で旧堤防下をトンネルでぬけて堤防外に広がる田畑を潤していた分流があったが、新堤防ができ、宅地が増えたので今は排水溝の役目をしている。更に平井地内には数か所の取水口があり、細い用水が網の目のように造られ、重要な農業用灌漑用水として利用されている。

昔、川がきれいであったころ岸には雑草が茂り、川底には藻が生え、はえ・ふな・どじょうなどの川魚が泳ぎまわり、蛍やとんぼが飛びかっていた。このような小川の風景は今はない。生活の合理化のためとはいえ、セメントの護岸と汚水で、小さな生物や草花の生きた自然が失われていくことは残念である。
倉安川
吉井川下流の岡山市吉井(旧上道郡御休村吉井)に堰堤(えんてい)を設け、水門によって水を引き、角(つの)山・竹原・雄神と南西に流れ、浅越から砂川に至り、可知から中川水門で百間川を横ぎり、操山に沿って湊にはいり、山麓を西に流れ、北に折れて網浜へ至る。桜橋付近に樋門を設けて、旭川にロを開いた人ロ水路で、幅はおよそ2間(約4m)総延長約5里(約20km)である。
これは、延宝7年(1679)に開発された296町歩の倉田新田を灌漑する用水路として掘られたが、一面には吉井川と旭川の二大河川を結ぶ運河の性格を持っていた。このような倉安川の開さくは、津田永忠の建議・設計に基づいて光政の下命によって延宝7年(1679)2月朔日(ついたち)に着工、8月に平井村旭川端、元町までほぼ竣工している。しかし、このとき全く新たに開さくされたものではなく、従来からあった用水路や小川は極力利用し、その川幅の狭いところは、2間位に堀り広げ一貫した川筋として貫通させたのである。
この年10月19日には、光政が江戸からの帰国の途次、和気郡坂根村から乗船して、初めてこの新運河を下って帰城しており、同月21日から高瀬舟の倉安川通行が許されている。しかし、このとき倉安川尻は平井元町の辺りで旭川と合流していた。この場所は、河岸近くまで浅瀬が広がっている。引き潮になると船の通行ができない上、両河川の水位が大きく違うため倉安川の水が流出するような事態が起こったという。そこで同年12月評定所で協議し、改めて光政公より津田永忠に平井水門から北へ約230間(約600m)の新しい水路を掘り足す工事を申し渡した。その後の工事記録は無いが、翌延宝8年(168O)にこの新しい水路は完成したものと思われる。そして、倉安川尻に網浜水門を設け水門番所を置いた。
この川ははじめ新川と称されたが、同年12月に津田永忠の意見どおりに倉安川と命名されている。この名称について、従来はすべての物資を馬で運んでいたが、この新川ができてもっぱら船で運ぶようになり、運賃が格安になったので、馬(鞍)よりも安いという意味で倉(鞍)安川というようになったという。
吉井川から倉安川への入口にある吉井水門は、河岸に接して第1の水門があり、やや下った所に第2の水門が設けられ、両水門の間が楕円形の舟廻しになっていた。高瀬舟が倉安川に入る時には、まず第2の水門を閉じて舟廻しに舟を入れ、次に第1の水門を閉ざし第2の水門を開いて水位の調節をして倉安川に乗り入れるようになっていた。
また旭川の出入口も、2基の水門(七番平井水門、八番網浜水門)により水位の調節をしていた。この水門の間は直線の水路で約600m位あり、舟待ち運河であった。当時としては巧みな工事が施されていたものである。

倉 安 川

津山方面から吉井川を下ってくる高瀬舟や、岡山の東部和気郡・赤磐郡から舟便で物資や人を岡山へ運ぶ場合、吉井川から児島湾を迂回するよりも運賃は安く距離も近い。その上危険も少ないので、いろいろな物資が輸送されるようになった。当時運ばれた物の首位は、年貢米や知行米で、ほとんどこの川によって岡山に集められていた。また一般の人たちの交通にも利用され、西大寺の会陽のときなど、岡山から沢山の人を運んでいる。このように水上交通の発達に伴って、流域をはじめ県東部一帯の産業開発も大いに進められたのである。
高瀬舟は岸を人が舟につけた縄を引いて運行していた。そのため両岸に道があり、また橋は少なく荷物が当らないように高い太鼓橋にしてあり、橋の下には人の歩く石の段が造られていた。また、両岸には舟を引くのに邪魔になるので木を植えることは禁じられていた。この舟を運行する人について池田藩は、加子浦である中川村に新田開発の補償として、高瀬舟稼業の権利を認めて、独占的に運行することを許可したという記録が残っている。
藩政下の記録によると、「倉安川(新川)尻に水門番所あり、高瀬舟の出入り改」とあり、倉安川は池田藩にとって大切な役割を持っていたようすが窺える。次に農業用水としては、平井地区でも時に利用されていたが、湊地区では新田地帯への支線用水路が通り水門が設けられて利用されていた。かつては、用水の分配は川奉行管轄のもとに番水制で統制されていた。また本来この用水は、吉井川から旭川へ西流していたが、旱魃(かんばつ)で水不足の時には旭川の額ケ瀬あたりを堰(せ)いて、網浜から取水して補っていた。余談になるが額ケ瀬の堰(せき)止めには平井地区の人達も駆り出されたということである。今は、百間川より西の岡山地区を流れる用水は、旭川の京橋上の井堰により取水しているので東へ流れ、吉井川で取水したものは西大寺地区を西流し、どちらの流れも百間川で合流して児島湾へ注ぐ。
湊の川沿いの古い家では、岸に石段が残されている。炊事や洗濯など生活に欠かせない用水であったことが窺える。また古老の話では野菜の出荷や、わら、肥料などの運搬にも利用していたとのことである。
現在の倉安川は、一級河川に指定され、両岸の整備も進んでいる。運河としての役目を終え汚濁もかなりひどい。しかし、池田光政以来300年。操山南域に広がる新田沃野を育み支えてきた水脈は、今なお絶えることなく今後も灌漑用欠くことのできない重要な用水として流れ続けるであろう。

 (つづく)

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