お花見の花は梅から桜に移り変わった

投稿日:2024年4月6日

 お花見は、奈良時代の貴族が始めた行事と言われており、当初は中国から伝来した梅の花を観賞するものだったようだ。万葉時代の歌人、大伴旅人が都から遠く離れた筑紫の地に太宰師(大宰府の長官)として赴任し、自邸に植えた梅を愛でながら歌を詠む「梅花の宴」を開いた話は有名だ。その旅人の傍らに大伴坂上郎女がいた。「万葉集」随一の女流歌人といわれる彼女は、次のような歌を残している。

⦅酒杯に梅の花浮かべ思ふどち 飲みての後は散りぬともよし⦆

酒杯に梅の花を浮かべ、新しい者同士が飲み合い十分に楽しんだ後は、花は散ってもいいだろうという意味だ。

やがて、平安時代に入り、お花見の花が梅から桜へと移り変わっていきました。桜の花でのお花見の起源は、「日本後記」によると嵯峨天皇が催した「花宴の節」という宴であると記されている。以前は貴族の行事だったお花見ですが、鎌倉時代以降は武士階級にも広がっていった。有名なのは、豊臣秀吉の「吉野の花見」や「醍醐の花見」でしょう。「吉野の花見」は文禄3(1594)年、豊臣秀吉が徳川家康や前田利家、伊達政宗などの名だたる武将や茶人、連歌師などを伴い、奈良県の吉野山で行ったもので、参加者は総勢5千人、5日間にも及ぶお花見だったといわれている。

「醍醐の花見」は、お花見のために700本の桜が醍醐寺に植えられ、豪華絢爛に茶会や歌会などが催されたとある。

お花見文化が庶民にも広まったのは、江戸時代を待たねばならなかった。桜の品種改良も盛んに行われるようになり現在、全国各地で鑑賞できる最もポピュラーな品種「染井吉野」も、この時代に作られたらしい。

ここ半田山ハイツ緑道の西方面にある桜「染井吉野」は満を持して咲いてくれました。桜の下には昼の宴会の為だろうか場所取りのシートが敷かれていた。いつまでもこのような平和が続きますように!

カテゴリー:あれこれ 新着情報

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