藤原ってどんなとこ?

藤原町内会のあらまし

藤原町内のあらまし資料

 

藤原ってどんなとこ?

1955年頃(昭和30年ごろ)は、山陽本線と操山沢田、今谷地区の間は見渡す限りの田んぼで、その中を百間川が細々と流れ、西大寺軽便鉄道のマッチ箱のような列車が走っていたのどかな田園風景が広がるところでした。ちなみに現在の岡山交通藤原営業所のあるところが軽便鉄道の藤原駅でした。ここから稲藁を西大寺にある製紙工場に運んだそうです。

戦後の混乱期が一段落し、産業復興にかかり始めるころ国道250号線(旧2号線)が敷かれ、原尾島市営住宅、藤原光団地ができるなど徐々に宅地化が進み、2号線沿いには工場、商店が増えていきました。そのころに藤原町内会が形成されましたが、40~50世帯の小さなものでした。
それでも地域の絆は固く、住み良いところにしようといろいろと先達が苦労だれたようです。

現在は大型マンションが立ち並び、宅地化が一層進み田んぼを探すのが、難しいほどになっています。時代が進み住む人も考えも多様化してくると人と人とのかかわりが希薄になってきますが、それでも私たち藤原に住む人は手を携えて住みよい街、安心して暮らせる街にして行かなければなりません。藤原の隠れた名所、昔話等情報の提供をお待ちしております

幡多二千年の歩みより


岡山市今昔写真集より
一枚の駅名札が立つばかりの大師駅と車両(中区関・昭和35~37年)
 開業当時は「関駅」といったが、鉄道院から改称を命じられ、大正3年に「幡多駅」となった。
数年後の同5年、近くにあった虚無大師が「ゴロゴロさま」として信仰を集め、
参拝客が急増したため「大師駅」と改称。
かって花の駅で知られた藤原駅     ⇒
 もと二本松と言った駅で、鉄道院の命令で
改名。そのころ西大寺鉄道の各駅は花を
競って作っていいたが、各駅の花壇品評会で
三年連続優勝した記録を持っている。
出典:幡多二千年の歩みより
 
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