旭ヶ丘の沿革
はじめに
瀬戸町江尻区字陣場山にあった陣場山およびその周辺地域を西武都市開発(株)によって造成された土地の上にできた団地。
昭和49年11月に完成し、翌年戸数34戸で町内会が発足、昭和52年「江尻旭ヶ丘」として瀬戸町で25番目の行政区となったが、平成9年「江尻」を抹消して「旭ヶ丘」となった。
陣場山とは
江尻地区にあった小山である。向山と峠道によって切断された瓢箪型の 独立丘状の山で、全長約350m、北嶺約45m、南嶺約28mで南北にのびて平野部にのぞんでいた。古くから陣場山に古墳の存在は知られていた。
陣場山の名称由来
羽柴秀吉が、天正10年(1582)、備中高松城攻略の為西下した時、ここに一時陣を布いたという伝承から。
又朝鮮出兵のおり布陣したと言う説もある。秀吉事記豊鑑や日本戦史によると、多少の食い違いはあるが、秀吉二万を引き連れ天正10年3月15日姫路出発、同日三石泊、16日に福岡(現瀬戸内市福岡)泊、19日に沼城(岡山市沼)に入り、4月4日岡山城に入るとある。
福岡から岡山城に入るまで約2週間以上を要しているから、その間沼城が望めるこの陣場山や築地山常楽寺に布陣したであろうし、沼城(亀山城)到着後は沼城を中心に周辺一帯で逗留したはず。
まして備中高松城を水攻めに行く途中羽柴秀吉軍は東隣の肩脊徳王寺から小ぶりの梵鐘(備前州肩背郷徳王寺鐘と刻印してある)を徴発して行き陣鐘として使用、その後高松城跡の田から耕作中に発見され御津町金川の妙覚寺の所蔵となったが、現在は県立博物館にある。
羽柴秀吉関連伝承に、旧山陽道に沿って
①備前市浦伊部に太閤門と言われる門あり。
②瀬戸町に陣場山
③徳王寺の陣鐘
④砂川を越えた常楽寺のある草ヶ部地区の民家にも太閤門と呼ばれている門がある。
⑤築地山常楽寺に秀吉の天正10年の古簡がある。
⑥築地小廻内を秀吉が乗馬散策の口碑あり。
以上から考察して、当時山陽道の副道として
福岡 ‐ 一日市 ‐ 浦間 – 江尻(現旭ヶ丘含む) – 下 – 谷尻
- 築地山 – 笹岡 – 観音寺 – 宿奥 – 宿 – 岡山
であったからこの地域に秀吉伝説があるのも納得できる。
秀吉や黒田官兵衛らがこの旭ヶ丘を通ったと想像するだけでロマンを掻き立てられる。
発掘調査
住宅団地造成に先立って昭和47年(1972)8月から~昭和50年にかけて発掘調査が行われた。その結果、弥生時代の住居跡や土壙墓をはじめ5世紀の古墳数基のほか、多数の円筒埴輪棺墓、石を組んだ箱式石棺墓などが発見され考古学界では注目された。特筆すべき内容は、円筒埴輪棺墓が見つかった事。
円筒埴輪棺墓は本来、古墳を飾るため使われる円筒埴輪を2~3本継ぎ合せて遺体を埋葬棺に使用したお墓。使用された円筒埴輪の中には鹿や水鳥の文様、木の葉、雲形の文様を線刻したものがあり全国でも大変珍しいもので瀬戸町郷土館や倉敷好古館に展示されている。
現旭ヶ丘の2丁目、3丁目のあたりは浅い谷状の段々畑であったが、そこから平安時代の官衙と考えられる建物群の柱穴多数が発見された。
他の遺跡は総て消滅したが、この建物遺跡は厚い砂を覆って保存してある。又円筒埴輪棺墓群は埴輪作り職人の集団墓と考えられる。
埴輪工場は発見されていないが、この付近にあるものと思われ、近辺の古墳で利用された埴輪はこの陣場山の職人によって作られたのだろう。
現在は、団地北側の山裾に帯状に陣場山の名をとどめているのと、石を組んだ箱式石棺墓(若い女性の骸が納めてあった6号墳)は2丁目北の公園に移築保存されている。