一般国道2号

新保交差点より、上り方面、東を望む。

 一般国道2号岡山バイパスは、岡山・倉敷市内における交通混雑の緩和と都市間交通の円滑化による地域産業の発展を目的として計画された、岡山市浅川〜倉敷市大西に至る延長38.3qの大規模バイパスです。
 昭和38年度に事業開始。昭和43年度から工事が着手されました。
 最初の区間である早島町と岡山市の間が昭和45年に開通し、これを拠点に東西に順次工事が進めら、芳田学区連合町内を東西に横断する区間、青江〜米倉間は、昭和51年3月25日に完成し、供用開始されています。
 岡山バイパスは、岡山3大河川の集積平野と江戸時代初期からの干拓事業によって作られた、水分を多く含んだ地盤の柔らかい地域を通過します。
 このため、地中に砂や紙の柱を打ち込み地中の水分を吸い上げる「サンドドレーン工法」や「ペーパードレーン工法」といった特殊工法が採用され、軟弱地盤に対する安全対策が図られています。

 連合町内東には、一般国道30号が通っています。
 現在、交通混雑の緩和の為、岡山市当新田〜玉野市田井に至る延長15qを2車線から4車線に拡幅する工事が、進行しています。
 玉野市・灘崎町とは合併も検討されており、国道30号の果たす役割は、益々高まるものと予想されます。
 
 連合町内北には、都市計画道路下中野平井線が作られています。
 宇野線の高架下を抜け、下中野の交差点まで連結されれば、JR宇野線より西の地域との交流がより促進されるものと思われます。
 (※平成15年9月30日開通しました。)
 この都市計画道路は、市の中心部を循環する内環状線・市の郊外を循環する外環状線(笹ヶ瀬川の右岸側、相生橋付近では対岸辺りに計画されています。)と共に、中環状線として、将来的に市の道路交通・地域の産業活動の中心的役割を担う道路です。
 
 古くは、山陽道(西国往来)は、市の北部、津島・津高の辺りを通り、平家物語にも備前国福輪寺畷の篠の迫に妹尾兼康が、木曽義仲の軍勢を迎え撃った話が出て来ます。
 戦国時代には、宇喜多直家が山陽道の路線を変更して、岡山城下を通過するように改めました。その南に下ったラインは、京橋〜西大寺町〜シンフォニービルの辺りまで北上し、そこから西へ向かいました。奉還町商店街は、この沿道に作られています。

 今、かつての山陽道と同じ意味合いを持つ道路は、高速道路もありますが、通行量から言って、国道2号がそれに当たるものと思われます。

 吉備路へ行くと、旧山陽道跡地を散策されている観光客の姿を見かけることがあります。何百年か先には、パンフレットを片手に歴史探訪をされる方が、この辺りにも現れるかも知れません。

 騒音と排気ガスと交通量の多さとマナーの悪いドライバーに、時には悩まされることもありますが、岡山の主要な幹線道路が、芳田連合町内を東西・南北に走っていることは、町内として誇りうるものの一つだと思っております。

一般国道2号

当新田の陸橋より中心市街地方面を望む

一般国道30号

【ちょっと寄り道】
 新国道30号が出来る前は、児島線が国道30号でした。

 宇野線の開通は、明治43年(1910)6月のことです。

 昭和13年には、新相生橋が完成しています。
 金比羅往来は、この附近を通っていました。

 また、連合町内より北に少し離れますが、戸隠宮石門分神社の細い道が、鴨方往来(庭瀬往来)で、戸川氏・板倉氏の庭瀬、備中代官所のあった倉敷の北、備中第一の商港であった玉島港、池田家の支藩のあった鴨方などを結んでいました。