里の話


米倉の躍動

百姓力
 吉原勘衛と言う人がいた、米の仲買商をしていた山上氏が京橋から米俵50俵 を舟積みするため里から力の強い若者25人を雇い一人二俵づつを里から悪路京橋まで運ばせた。
 力自慢の若者も途中幾度か息を抜いたが中に勘衛だけは一休みもせず目的の京橋に着いたがそれでも俵をおろそうとはしなかった、山上氏が「重かったろう、もうおろしては」というと勘衛は「いやくださのならこのまま休まずに自宅まで運ぶ」と言ったそうである。

情は血よりも濃し
 ○○家は何不自由の無い裕福な家庭であったが夫婦には一つだけ悩みがあった 、それは子運がないのか出来る子が次々亡くなってしまった、医師に相談し神仏 に祈願したが何の効果も無かった。
 ある晩のこと、重吉が風呂に入っていると赤子の泣き声が聞こえ不思議に思って妻と二人カンテラの灯かりを頼りに付近を捜していると、隣家の空き地にフゴ に入れられ奇麗な着物を羽織った可愛い男の子が捨てられていた。
 早速家へ抱え込み「神様からの授かりものだ」と大喜び、淋しかった家の中は 花が咲いたように明るくなった。
 その児には沖田神社のお守りと円五郎と言う名前が添えてあったのでその通り 命名し夫婦で心を尽くして養育し、すくすくと成長していった。
 ところがそれから三年目の事、妻が男の子を出産、世に言う「せらい子」である、また四年目には二人目の男の子が生れた、不思議な事に拾い児を育ててからはどの子も病気一つせず見事に成長した。
 三人の子供が成年に達した頃、どの子が家を継ぐのか近所の話題に成った。
 円五郎が相続し実子は他家に出すと聞いて皆は我が耳を疑った。
 重吉夫妻は言う「我が家には児が育たない、拾い児を育てたお陰で実子も成人することが出来たのだから粗末には出来ぬ」と理屈ではなく実子が出来てからも いささかも愛情に変わることは無かった。
 後日、円五郎が自分の娘を嫁に出すため戸籍を取り寄せ自分がこの家の実子で ないことを始めて知り「誠にあいすまんことをした」と言って男泣きしたという 。
 この養父母にしてこの子あり、円五郎は円満な情味豊かな人で義兄弟の間も睦 まじく養父母に仕え家業に精励し○○家繁栄の基礎を作った。
 付記)家名は、現在も一族繁栄をされておられ○○家とさせていただきます。

狐の嫁入り
 明治の初め頃は民家が少なく狐の楽天地であった、水門、はなぐり等に狐が住 んでいた、里の出屋敷を下って前堤の松並木の中にひときわ目立った自然木があった、里の人はこれを「源太平の松」と呼んだ、それは男狐の源太平が住んでいたからである、当時「はなぐり」にも「お花」と言う女狐がいて両者は目出度く結婚したそうである、嫁入り行列の灯かりが前堤の上を長々と続いたのを見たと いう老人がいた。

田中のくろ
 田園の所々に「くろ」がある、昔は一坪位の大きさの物もあったそうである、 今では小さい盛土で残っておりその数も少ない、以前は田中地区の南の付近に多 く見られた、西長瀬には未だに花を供えているところがあると聞いている、これは昔戦国の世、この地方にて戦死した人を埋めた所で掘ると武器が出てくると言 われていた、長い間この「くろ」に触ると災難を受けるといわれ保存されて来たが今ではあまり見られなくなった。
 この地方での戦いの記録は、今村の開拓が正慶元年とあり中野の開拓はこれよ り古い、彼の南朝の忠臣多田頼貞が足利尊氏の大軍と浜野に戦い武運つきて遂に 敗れ再挙を期して従者九人と共に逃れて中野の民家に隠れたとある、このころ既 に相当の人家が有ったものと推定される。
 また一説には秀吉の高松城水攻めの戦いにおける戦死者とも言われている。

 戦乱の世とはいえ、ここに眠る人はこの見知らぬ土地で一人どのような思いで 亡くなっていったのであろうか、ふとそんなことがよこぎり物の哀れさを感じる 。
 また、「源太平の松」も、お花の住んだ「はなぐりの松」も、敗戦の濃くなった昭和20年、全てが切り倒され、松の根っこは戦闘機の燃料となり、今は松並木の面影はどこにも無い。
 里の民話の中に、変り行く故郷への想いと平和への尊さ、そして日々への感謝の念がよぎる。


この「里のおもかげ」は田中一夫先生の里のおもかげを参考に幼年期、少年期の記憶から生まれたものです。