2006
前略 天満宮の秋祭り 今年の稲の作柄は、日照不足で「やや不良」とか。 秋の実りに感謝し、豊作を祝う天満宮の秋祭り、稲穂の揺れる町内を子供みこしが「わっしょい・わっしょい」の掛け声も勇ましく通り過ぎて行く。 「花代」を渡す人々の表情も明るい。 追伸 子供たちの楽しそうな画像は、会員ページ「トピックス」で紹介しています。 |
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前略 学びと健康ウォーク (笹ヶ瀬川とわたしたちのくらし) 第3回「学びと健康ウォーク」今回は芳田中学校から笹ヶ瀬川土手、そして当新田環境センターをまわるコース。 中学校校門では、この地一帯は昭和30年代までは水田で、水田に水が入ると「フナ」「なまず」「うなぎ」が産卵に上り、子供たちは網を持って追いかけていた。 獲物は夕刻の食卓に上り家族のだんらんとなった。 櫻土手では、すばらしい松並木が笹ヶ瀬川を行き来する舟から見え、その景観は松土手と呼ばれ親しまれた。 しかし、戦争末期に飛行機の燃料が不足し、松は切られ油に変わった。 後に、地元のF氏が、それを嘆き櫻の苗木を植えた、今では毎年春になると私たちの眼を楽しませてくれ。 当新田樋門では、旭川の水を牧石地区で管掛用水として取入れ、市内西川を下り、西部一帯の灌漑用水として田を潤し、この樋門から笹ヶ瀬川に放流される。 昭和37年、児島湾が淡水化されるまでは、樋門の両岸には舟たまりがあり漁師の舟が多く係留されていた。 外土手では、開拓の過程で内土手と外土手があった、今では内土手は道路となり住宅街となっている。 この外土手は河川管理の上で重要な要所である。 昭和29年、台風の通過と満潮が重なり笹ヶ瀬川は各所で決壊の危機にさらされた、消防が土嚢を積み警戒に当たり住民に避難準備が出された。 夜中の1時過ぎ突然水が引いた、対岸の藤田錦の堤防が決壊した。一面濁流が押寄せ大きな被害を出した。 今は、決壊した対岸堤防には櫻の木が植えられ当時の面影はないが住民の心には深く刻まれている。 老人のぼやき 今では、この土手に家庭の庭のごとく木が植えられ野菜が栽培されている。 一昨年の台風では、豪雨のため児島湖に設置された各所の排水ポンプにより笹ヶ瀬川が増水し堤防決壊の危険から消防が警戒に当たった、幸い大事には至らなかったがその危険は解決されていない。 単に堤防を高くすると水位が高くなり、水圧が高くなると、漏水による危険は高くなる。 堤防下を耕作し家庭菜園にサツマイモが植えられています、増水に伴い水圧が上がれば、その底辺の堤防の下側を浸透た水が、町内の田圃の中で漏水となって噴出しています。 それがだんだん大きくなり、一挙にどっと水が漏れて、堤防が決壊する危険性は十分にあります。 戦後の食糧難の時代でも、国道脇にサツマイモが植えられても、堤防に植えることはありませんでした。先人たちの知恵を見習うことが慣用です。 堤防の各所に立て看板を見受けました、文化施設・情報化対応等々行政の果たす役割は多様でも、住民の財産と生命を守ることの大切さを最優先されるべき課題ではないかとこの時期強く感じました。 塩抜き川では、今では道路となった内土手を塩抜き川に沿って歩く、笹ヶ瀬川堤防の下には水田の塩害を防ぐために塩抜きが掘られていた。 今もその名残りがこの用水として残っている。 この地域は、今も井戸を掘ると井戸水には塩分が多く含まれている。 藤田用水取入口樋門では、干拓された藤田地区は、水不足に悩まされ旭川用水の余り水を笹ヶ瀬川の底にサイホンを通しポンプで水を対岸に送った。 今も、その歴史として藤田用水樋門が保存されている。 当新田サッカー場では、この一帯はイ草の栽培が盛んだった。 夏の炎天下、刈取られたイ草は土手一面に干され、白と緑の美しい光景は夏の風物詩であった。 丸亀出身の方から「私の近所の方は、連絡船に乗って岡山へイ草の刈りに出稼ぎに出ていた、労賃は高いが大変な重労働であったと聞いている。」その通り、四国から県北から多くの人たちが農家に入り刈取り作業が行なわれた。 当新田環境センターでは、玄関で小学校高学年の女の子が「ここでは、豚の丸焼きが出来る」と、みんなを笑わせる。 日ごろは、もくもくと煙を吐く煙突を眺めているが最新の設備とコンピュータ制御による環境保全への取組みに安心感と家庭ゴミへの対応に心して当たらなければと、みなさんそんな思いを深くしました。 老人のぼやき 朝夕、風向きによって焼却場の高い煙突から吹き降ろされる煙を見る度に「大気汚染大丈夫かな、遠い将来どうなるのだろう」そんな思いは消えない。 堤防下に不法投棄は絶えない、岸辺にはハッポースチロール、空き缶、ペットボトル等々流れ着く。 水の流れはどんよりとしている、児島湖の汚染は全国でもワーストクラスとか。 遠い日、潮が引き干潟では、シジミ、ちんだい貝、シャコ、そして平家蟹がのんびりと這っていた。 沖合いでは、四つ手網の舟が並び、うなぎ、えび、ベカいか等々が網にかかり、時に今では天然記念物のカブト蟹が網にかかって漁師を悩ませていた。 子供たちは、夏休み裸で泳ぎ、貝掘りを楽しんだ。 秋の深まる中、ふと立ち止まりそんな事を思っていた。 帰路小雨の中、そんな語らいの中で黄金色に実る稲穂と久しぶりの雨に恵まれ微笑む野菜畑に目を向けながら、予定のコースを終了しました。 感想として、学びと健康ウォークにしては、少し足早であったことは残念でした、今少し目と耳と手で地域の歴史と自然に親しむウォークになればと思われました。 参加者は約100名、しかし米倉からの参加者が少なかったこともチョッピリ残念でした。 今ひとつ、日ごろ車で通るこの道、歩いてみて大半が白線歩道、通学路の危険を改めて感じました。 早々 平成18年10月1日 米倉老人 |
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前略 米倉港で舟に乗ろう 芳明小学校フリースクールの生徒たちが9月30日(土)米倉港で「ほうめい子丸」に乗って舟遊び体験をしました。 昭和30年代までは港に貨物舟が出入りしていた話を聞きながら順番に乗り込み、昔の渡し場の跡あたりまでススキの穂が揺れる笹ヶ瀬川を往復して歓声をあげていました。 船待ちの間は、紙芝居「西遊記」を河川敷に設けられた青空劇場で楽しみ、おやつは、チューチューアイスとえびせん。 参加授業料10円が頼もしい。 早々 平成18年9月30日 |
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前略 ど根性桐の木 昔、女の子が生まれると、庭や畑に桐を植え、嫁ぐ時にはその桐を使ってタンスの用材にして持たせた、そんな話が残っている。 夏の終わり、町内クリン作戦の途中、青い空を見上げると、どこから飛んできたのかバイパス米倉交差点の高架橋橋脚に芽生えた桐の木が1メートルの背丈まで生長した。 桐の木は、毎日渋滞する米倉交差点の車と排気ガスに耐えながら生長し、通学路の子供たちを見守っている。 まさに、コンクリートにはいつくばっている「ど根性桐の木」である。 おそらくこの木は、琴になる事もなく、タンスになる事もなく、下駄にすらなる事も無く、やがて切り倒されるであろう。 桐の木は、五月下旬ごろうす紫の淡い花を付ける。 風に耐え、厳しい環境に耐えながら花の香りを漂わせ、私たちに勇気と生きる喜びを与えてほしいと願う。 ふと、遠い日「親という字は、立つ・木を・見よと書く」と言った長老の言葉を思う。 草々 平成18年初秋 米倉老人 |
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拝啓 夏の日の思い出 8月5日、強い夏の陽射しが西に傾き夕暮の露天に灯りが入り、紅白の提灯が夜風に揺れる頃、芳明小学校グラウンドで「ふれあいの夕べ」が行なわれ、今年も夏の一時を老いも若きも集い・夕べの涼を楽しみました。 今年は、体育部が「チヂミ焼き」の露天に挑戦し大盛況でした。 草々 平成18年8月5日 米倉体育協会 なお、ビンゴゲーム・盆踊り・アトラクション・夜店・お楽しみ抽選会等の楽しい画像を会員ページ「とぴっくす」で紹介しています。 |
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拝啓 縁(えにし)の便り 米倉港の繁栄 港の近くには、料理屋、宿屋が賑わいを見せていました。回船問屋今田屋には多くの商人が出入りし、丁稚さんたちが忙しく立ち振る舞い、荷馬車が往来し、内川を小船が行き来していました、今田屋の建物も昭和の30年代に取り壊されましたが、稲荷様は大樋門北側に移されて今も奉られています。また今田屋(今井家)の墓敷は米倉墓地内にあり、その様相からからして当時の繁栄を忍ばせるものがあります。 干拓平野には山がなく、稲わら・麦わら・川原の葦等が各家庭では燃料として使用されていた、その大量の灰が溜まり、回船問屋今田屋は、その灰を集め瀬戸内の島々に「みかんの木」の肥料として送り灰問屋として栄えました。 上記のわが町の歴史「米倉港の繁栄」に立ち寄られた、東京に住まいする今井豊さんからメールをいただきました。 ご紹介し、電子町内会ホームページの意義を深くしています。 敬具 平成18年春
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拝啓 春来る日 「冬は駆け足でやってくる」と言うが、今年の冬はまさにそれを実感させられるように12月の上旬から、次々と寒波がやってきた。 立春を過ぎた。毎日膨らんでゆく梅の蕾を眺め四季の移ろいの確かさを感じる。 この冬は晴れた日の空気が一層澄んで侘助の紅い花弁と葉の濃い緑がより美しく感じる。 冬の厳しさを知れば知るほど春を待ちわびる、「春近し」頑張るぞと意気込みが湧いてくる。 木々は、木枯らしに残りの葉っぱを吹き飛ばされた時から既に春が始まっている。 じっと耐える木々の新芽。人も春を迎えるために耐える。 やがて訪れる「春来る日」を信じればこそ。 敬具 平成18年早春 |
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拝啓 新春に思う 穏やかに新しい年が明けた。 今年の抱負は、誰も見ていなくても、自分がこうありたいと心に描いたことを具体的に実行するよう心がけてみよう。 若い頃は、自分の働きに対する評価が良いと得意になりがちであった、最近ではどこかで誰かが、あるいは何かの役に立ったなら良かったと思うようになった。 「季節のたより」もお届けして4年目の春を迎えます。 明るい話題がお届けできることを祈り、そして、新しい年が「地域創造」の年であって欲しいと願います。 敬具 平成18年正月 |