季節のたより
2015




豊年満作、秋祭り
 日本では五穀豊穣に御利益があるとされる神社が各地に祭られています。
 童謡の「村祭り」では鎮守様に豊作を感謝する祭りの様子が歌われ、二番の歌詞に「豊年満作」と歌われています。
 当、西市天満宮の創建は天文元年(1532年)山城国北野の天満宮を勧請したのが始まりとされています。
 この西市天満宮には境内に「牛馬神」があり牛馬の安全を祈願した、当時は農耕の牛馬は我が子のように労われました。
 また、大正元年、渡米者が寄進した石の大灯明台は今も境内に聳えています。
 祭は、春秋の2度行われ稲作の初めと終わりに豊作を祈り感謝を捧げます。
 今年も、10月、17日、18日と行われ、「御神輿」を担ぐ子供たちの明るい笑顔が通り過ぎて行きました。


 

 

 

 



台風15号
 8月25日、大型の台風15号が熊本県に上陸した後、九州北部を縦断し、九州や中国地方などで大雨や暴風となった。
 雲仙岳では1時間に134ミリの猛烈な雨が降った。当地方では大きな災害はなく幸いした。
 台風の通過後の夕刻、東の空に雄大な虹が現れた。
 この夏もトケイソウ(時計草)が米倉天理教前の川岸に咲いた。



田植えのころ
 6月は田植えの季節である、遠い日、苗が整然と植えられている田んぼを見ていると日本の自然の素晴らしさを知らされていた。
 田植えを終えて、その夜は耳を澄ますと蛙の大合唱、それを聞きながら眠りにつく子守唄であった。
 丹精込めてお米を作る日本人の誠実な生き方に感動されていた。
 農業の機械化と農村生活の都市化、農地の都市的利用への転換、私たちの住まいするこの地も高度経済成長が始まった昭和36年(1961年)に有史以来農地面積は激減し梅雨時の風景も変わった。

岡山市旧芳田村の農業センサスデータ
中国四国農政局 統計部

 年次  総農家数  経営耕地面積
 1961年(昭和35年)  400戸 361ha 
 1965年(昭和40年) 376戸  326ha 
 1970年(昭和45年) 358戸  297ha 
 1975年(昭和50年) 321戸  231ha 
 1980年(昭和55年) 295戸  201ha 
 1985年(昭和60年) 279戸  185ha 
 1990年(平成2年) 240戸  163ha 
 1995年(平成7年) 207戸  153ha 
 2000年(平成12年) 185戸  129ha 
 2005年(平成17年) 130戸  79ha 
 2010年(平成22年) 109戸  61ha 

   
   
 田植え(昭和35年頃まで)  田植え綱



農業の機械化と農村生活の都市化
   
   
   
   



川掃除
 今年も田植えの季節を前に5月31日、用水路の一斉清掃が町民総出で行われました。
 稲作には水は欠かせません、水の状況によって収獲が左右されます、水は最も重要な物の一つです。
 米倉水門に向けて流れる用水の水草除去や岸辺の雑草の刈り取り、空き缶清掃など大変な作業でした。
 用水路は近年、川草が異常に生え茂り、川に入って取る人、それを運ぶ人と大変な作業でした。
 また、最近では不法投棄が目立ちます、きれいな川の流れで夏を涼しく過ごしたいものです。
 町民総出で汗を流し、水の流れも勢いを取戻し、鍬や釜を手にみなさん話のはずむ一時でした。

   
   



木野山神社米倉代参会
 高梁市に鎮座し、第62代村上天皇の天歴9年(955年)の創建になる古寺です。
 領主の崇敬もあつく、特に備中松山藩主、板倉伊賀守勝静候は、文久2年(1962)神徳を崇仰し、軍馬飼育守護神として崇仰した。
 古くから流行病、精神病に対する霊験は特にあらたかで明治9年を皮切りに中国地方に猛威をふるったコレラ病は一大惨事を巻き起こし、この病気を免れようとする人々が参拝し、格別のご神威の発揚があった。
 明治10年前後、米倉村を始め周辺の村々が疫病に苦しんだことがあり、高梁市に鎮座する木野山神社が疫病に霊験あらたかと聞き、村の代表が参拝し、その分霊を米倉にお迎えしてお祀りをしました。
 今年も、4月12日、代参の7名が車2台で参拝し、いただいたお札は、それぞれの家庭に配られ疫病の退治をお祈りしました。
 今後も、先人たちの想いを絶やすことなく地区住民代表が毎年交替で春の大祭に参拝して行きたいものです。


 

 



桜が咲いた
 米倉港の袂、笹が瀬川堤防下に咲く桜が今では十メートルを超える大木に成長し今年も鮮やかに咲きました。
 育てた人は不明ですが樹齢は五十年を超えるでしょう、道行く人の心を和ませています。
 品種は分かりませんが薄紅色の可憐な花をつけ比較的長い間楽しむことが出来ます。
 青空の下で笹が瀬川の流れを見下ろしているようです。




お彼岸
 いろは歌
 いろはにほへと ちりぬるを

  色はにほへど散りぬるを  (諸行は無常なり)

 わかよたれそ つねならむ
  わが世たれぞ常ならむ   (是れ生滅の法なり)

 うゐのおくやま けふこえて
  有為の奥山けふ超えて   (生滅を滅し已りて)

 あさきゆめみし ゑひもせずん
  浅き夢見じ酔ひもせず    (寂滅をもって楽と為す)

お彼岸参り
 太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる「春分の日」と「秋分の日」を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられています。


 

米倉・常慶寺山門

常慶寺 縁起
 釈迦如来を本尊とする臨済宗の寺で、米倉新田の開拓に密接な関係がある。当寺に宝暦五年に書いた詳しい縁起があり、これによると大阪市の落武者和気治左衛門が備中南部に百姓となって土着しており、その長子和気与左衛門が備前藩の許しを得て笹ケ瀬川の下流を開拓し、寛永十四年(1637)に新田面積三十町五反二十八歩が成就したので藩から米倉村と命名した。
 その節与左衛門が同家代々の念持仏春日作の千手観音を本尊として観音寺という一寺を建立、新田の祈願所托に自家の菩提所とした。
 観音寺は当時美作の仏通寺を本寺に頼んでいたが他国に本寺があっては都合が悪いので藍田和尚の代に通寺に断って岡山の国清寺の末社に入った。
 宝暦の縁起所の末段に、藍田和尚御代国清寺に本願寺上候右与左衛門法名常慶と申候故延宝年間に常慶寺と改号これによって国清寺と本末関係を結んだ機会に和気与左衛門の法名「常慶院心月永照居士」に因んで寺名を常慶寺と改めた。本尊に釈迦を祀ったのもこの時の様である。
 現在の本堂は明治十六年の再建で、三間五面入母屋造本瓦葺の南面した構えで、ほかに客殿、庫裡、山門などがある。なお同寺の境内に和気氏の墓所がある。
 和気氏は米倉村の開村当時から庄屋をつとめ後にこの地方の大庄屋となった。


happy new year
 1945年8月15日の終戦から、2015年で70年の節目を迎える。
 岡山でも大規模な空襲があった、1945年6月29日に焼夷弾による空襲で1700人以上の人が亡くなり、市街地の約6割が焼失した。
 B29から落とされた焼夷弾は、人や家を焼き尽くした。わずか1時間半の出来事であった。
 御津郡芳田村、今村でも焼失家屋があった。
 夜が明けると灰を含んだ雨が降った。
 戦争を知る人は、当時10歳でも80歳、実体験としての戦争を語り継ぐことが難しくなってきており、悲惨な記録は忘れられつつある。
 「平和」であることに慣れてきていないだろうか、失って気づくのではなく、今、その尊さを忘れないよう、過去を次の世代に語り継いでいく必要がある。


未(羊)にまつわる四字熟語・ことわざ
羊裘垂釣(ようきゅうすいちょう)
 隠者のこと、また、隠者のような生活のこと。
十羊九牧(じゅようきゅうぼく)
 人民に比べて役人の数が多すぎること、また、上に立つものの命令がさまざまで、下の者が困ること。
多岐亡羊(たきぼうよう)
 
方針や選択わざが多すぎてどれを選んだらよいか迷うこと。
羊頭狗肉(ようとうくにく)
 見かけは立派であるが、実質が伴わないこと。
肉祖牽羊(にくたんけんよう)
 降伏して、その相手に臣下にしてほしいと請い願うこと。
羊很狼貪(ようこんろうどん)
 荒々しく道理に背き、どこまでも貧欲なこと。
屠所の羊(としょのひつじ)
 人の命のはかないことのたとえ、また、気力がなく、いやいやながらつれて行かれること。
告朔のき羊(こくさくのきひつじ)
 古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならないということ。
羊を以て牛に易う
 小さい物を大きな物の変わりにすること。また、いくらかは違うが本質には変わりがなく、大体においては同じであるということ。
千羊の皮は一狐の腋に如かず
 多くの凡人は、一人の堅い人物には及ばないこと。
 
 


米倉の新春