第3巻(2004年度版)
地域にはそれぞれ風土、風景、風習、風俗、風格、風味、風情という7つの「風」があると思う。
そんな「風」を見つめてみたい。

変わった故郷

変わらぬ故郷

  忘れがたき故郷である。



晩秋の郷
 秋の取り入れのころ、忘れ去られてゆく米倉の原風景がある、刈田は郷愁を誘う。
 晩秋の夜風に、こぼれ落ちる落ち葉の音が、冬の近づくわびしさをつのらせる。
 柿の葉の落葉は早く、真赤に熟した小さな実だけが垂れている光景があちこちに見られる。
 稲刈り・脱穀・むしろ干し・とおす、米選機、今は聴くこともない言葉に人々の生活の知恵と村社会の営みがあった。
 時の流れの中で、この時期小学校の子供たちに、3日間の稲刈り休みが与えられた、その間に子供たちは多くの事を学び人格形成が醸成されて行った。
 歳を重ねた今、秋風の下で稲刈りに汗を流すと、心の奥底に眠っていた幼い日の想いが、同じ汗を流すことで満たされてゆくのを覚える。

 
 
  

渋柿の 渋がそのまま 甘みかな

秋の色
 秋の夜長には読書の秋が似合う。そんな心境になると日ごろ考えた事もない「沈思黙考」と言う言葉を思い出す。
 今は殆ど聴くこともなく死語に近い言葉の印象である。
 日ごろは、仕事に家事に明け暮れ四季の移り変わりも見えない、夜空を見上げて落ち着いて月を見上げる気分にもなれない。
 時には、殺伐とした社会の価値観から抜け出し、日本の財産とも言える四季を感じる別の世界を覗いて見る季節である。
 折角、訪れた天高く馬肥ゆる秋、人恋うる秋、読書の秋にせめて一時でも「沈思黙考」の姿勢で過ごしてみたいものです。
 気候温暖な瀬戸内地方にも、時に自然は猛威を振るい、相次ぐ台風による農作物へのつめ跡は大きい。
 天神様の秋祭り、子供みこしが稲田を渡る。祭りが終わると秋の取入れが始まる。


この秋は 雨か嵐か しらねども 今日のつとめに 田の草をとる



お彼岸のころ
 彼岸とは、迷いの世界である此の岸から悟りの世界である彼の岸へ到るとてう到彼岸から名づけられた行事で、彼岸会(ひがんえ)といわれています。
 自分も他人もともに幸せになる到彼岸として六波羅蜜の教えというのがあります。
1、布施(ふせ)=物であっても心であっても、人に喜びを分け与えること。
2、持戒(じかい)=規律を守り、節制ある生活を行うこと。
3、忍辱(にんにく)=心を動かさず、苦しさに耐え忍ぶこと。
4、精進(しょうじん)=目的に向かってたゆまず努力すること。
5、禅定(ぜんじょう)=常に平静な心を持ち続けること。
6、智慧(ちえ)=人生の心理を見きわめ、心理を見抜く力を身につけること。
 本来なら毎日心がけなければならないのでしょうが、日ごろはそうは行きません。
 そこで、お彼岸くらい、ご先祖様のお墓にお参りし感謝と冥福を祈り、六波羅蜜の教えを実行したいものです。
ぼた餅とおはぎ
 基本的には、餅米ご飯を握ぎり、あんこで包んだものをお萩といい、突いて餅にしている場合をぼた餅といいます。
 一般には、ぼた餅は「牡丹餅」、おはぎは「御萩」。春作るのがぼた餅で、秋作るのがおはぎとされています。
 また、ぼた餅は牡丹の花のように大きめに作り、おはぎは萩の花のように小ぶりに作るのだそうです。
 さらに、花のイメージから、ぼた餅はこしあんで、おはぎは粒あんで作るのだそうです。

 暑さ寒さも彼岸まで・・・・彼岸の時期は、一年中で一番過ごしやすい時期です。
 柿が色づき、彼岸花が楚々と初秋の日差しを受けて真赤に萌え、笹ヶ瀬川の岸辺のススキも秋の気配を濃くしてゆく。


人皆 美しき種あり、明日は何の花が咲くか


橋のある風景
 フランスのガール、スペインのセゴビアに今も残るローマ帝国時代の水道橋、世界初の鉄橋アイアンブリッジ、ロンドンのタワーブリッジ、トラスの名橋フォース鉄道橋、そして1937年に建設された長さ2734mのアメリカ・サンフランシスコの金門橋、1956年に建設された長さ8000mのリッチモンド・サンラファエル橋、国内では岩国の錦帯橋、1988年に9年7ヶ月をかけて完成した12.3kmの瀬戸大橋、1997年に完成したレインボーブリッジ、1998年に完成を見た明石海峡大橋、世界の男たちが技術の粋を集めて夢と・美学で作り出した景観。
 米倉にも数々の橋が点在する。今はその役目を果たしてひっそりと川面を見つめる橋、時の流れを絶え間なく見つめまもなく忘れ去り消え去る橋、毎日重い車を支える橋、長さ1mの橋にもそれぞれ物語りがあり、ロマンがある。
 米倉の橋、12景をご紹介します。

橋のある風景


信ずれば 心は かろし 盆の月
 現代社会は核家族化に伴い、お墓や仏壇を持たない家族が増えています、また 少子現象に見られる、お墓や仏壇の継承がととのわなくなっています。
 そんな中で、お盆は私たちにとって先祖との「いのち」の交流をはかる大事なひとときです。

盂蘭盆の起源
 仏教では七月(八月)十五日を「自恣」(じし)の日と呼び、「自恣」とは自分の 罪を悔い改めるという意味です。
 お盆の起源を教える話として知られているものに、お釈迦さまは、おおぜいの弟子たちとともに、雨ばかり降る雨期の三ヶ月間「雨安居」(うあんこ)という一 定の場所で外に出ず、ひたすら修行を続けられました。この日はその修行が終わり弟子たちがお釈迦さまを囲んで修行中のことを穏やかに反省しあう事になっていました、ある時、修行を終えた弟子たちに「この日に真心を込めてたくさんの飲み物や食べ物を供えし供養すれば、その功徳ははかりしれないほど尊いものがある」と示されました、これがお盆の起源と言われています。
 お盆は地域によって七月であったり一ヶ月遅れの八月に行われますが一般には亡き先祖の霊をまつり供養のために食物などをお供えし、十三日の夕方「迎え火 」に始まり十六日の「送り火」で終わります。

ウランバナの心
 お盆の行事はお釈迦さまによってインドではじめられ、やがて中国に伝わり唐の時代に入り広く行われるようになりました、日本では推古十四年(606年)に斎を設けたのが始まりと言われており、やがてそれぞれの地域性を育みながら私たち日本人の心と暮らしの中に深く根をおろして行きました。
 お盆は正しくは「盂蘭盆」(うらぼん)と言い、インドの古い言葉で「ウランバーナ」と言うのが語源です。
 「ウランバーナ」は「倒懸」(とうけん)と漢字で訳され「逆さに吊されるような苦しみ」を受けると言う意味です、そこから転じて安らかな世界を念じ死後の幸福を祈る習わしになりました。

迎え火・送り火
 お盆に行われる習慣の一つに「迎え火・送り火」があります。迎え火は十三日の夕方、家の前で火を焚いて先祖の霊をまねくものですが「おがら」と呼ばれる麻の茎や麦わら、こえ松の割り木などを使って迎え火をします。また、お盆を迎 えた先祖の霊が再び仏の世界に帰って行くとされる十六日には霊を送るための「送り火」をします。
 この行事で有名なものに京都「五山の送り火」があります、八月十六日の夜八時頃、京都市内を取り囲む五つの山々に赤々と送り火が点じられます。五山とは大文字・左大文字・妙法・船形・鳥居形の五つです。
 この習慣はお盆には欠かせないものであり地域によっては迎え火と送り火をお墓の前でするところもあります。
お供の心
 お盆には旬の野菜や果物を供え物として上げまし、ご馳走を作ってお供えし、 家族で一緒にいただき、先祖をお迎えするための盆棚(精霊棚)を特に祀ったりします。その中で、きゅうりの馬や茄子の牛を作って霊前に飾ったりします。この 習慣は馬は一刻も早く先祖をお迎えしたいという心であり、茄子の牛はお土産をいっぱい持ってゆっくりとお帰りくださいという気持ちを形にしたものです。それから「水の子」という物をお供します、茄子をさいの目に切り洗米やきゅうり を混ぜ蓮の葉の上に盛ったものです。
 茄子は、その種が百八つの煩悩にたとえられています、お参りする時、供えた水に「みそはぎ」の先を少しつけて、その水の子に注いでから礼拝します、それ は苦しみ迷いの元である煩悩を静めるためといわれています。

盆灯篭と「みずたな様」

 8月15日の晩はお萩の送り団子を作り輪灯を吊るし線香を焚き、先祖の霊と一緒に来訪した無縁仏、餓鬼(ガキ)に棚の一隅に先祖と同じ献立を供える。
 三日間は家族で夕方墓参りをし「灯篭」をとぼし肥松を焚いて供養します。また庭で迎え火、送り火に肥松を焚き「水棚」を祭ります。
 昭和30年頃まで、精霊送りの舟は、真こも(まこも)で作り夜半の刻に潮の引きに合わせて、肥松の灯火で読経の中で米倉港から児島湾に送りました。

私たちは誰一人として先祖のいない人はいない
みえなくとも お花を供えたい
食べられなくとも 美味を供えたい
聞こえなくとも 話したい
見えざるものへの 真心は美しい

庭の隅に「水棚様」をまつり、13日には迎え火を焚く。 「みそはぎ」の茎を箸にし
豆の葉・ハスの葉に美味を盛り
先祖様に供える
お盆の間、夕暮れと共に家族で墓参り灯篭をとぼし肥松を焚いて供養します。

先祖を思う私たちの報謝の心が、御霊を慰め、それが私たちの心を安らぎにみちびいてくれます。

  みそはぎや 水につければ 風の吹く 一茶



夏の風物詩U
梅の土用干し

 
梅雨が明けて、夏の風物詩「梅の土用干し」が始まりました、和気さん家の裏庭では、周囲に酸っぱい香りが漂い、夏の本番を告げていました。
 今春収穫した梅の実を柔らかくきれいに仕上げるために「土用干し」をします。
 土用干しは、梅の日光消毒も兼ねたもので、梅の実をたるから上げ、ザルに並べ、満遍なく日光を浴びせるよう1日ごとに裏返します。
 干すのは三日三晩、実は塩をふき、次第に引き締まっていきます、干し終わった実は、塩もみをした「しそ葉」と交互に梅酢に戻し冷暗所に貯蔵します。
 キラキラと輝く夏の太陽が西の山に沈んで行きます。



夏の風物詩T
かんぴょう

  
  夕顔に かんぴょうむいて 遊びけり  
(芭蕉)

 かんぴょうは、植物名で「夕顔」といい、真っ白で可憐な花が楚々として夏の夕方に咲き翌朝にはしぼんでしまいます。
 花あわせが終わると1ヶ月ほどで薄緑色のバスケットボール大の実がなります。
 この実を幅3cm位のひも状にむき、長さ3メートル位に切って竿にかけて干します。
 以前は、農家の庭先に白いひものようにひるがえる夏の風物詩でしたが、今では見かけることも少なくなりました。
 巻寿司の芯には欠かせない一品で、繊維・カルシュームが豊富な自然食品です。
 また、かんぴょうの芯は、種を取り一夜干しして煮付けると食卓を飾ります。
 この日照りで、畑の「すいか」
も甘味を増してゆきます。







あじさいのころ

 シトシトと雨が降り続くと、外出する気分になれない、そんな憂鬱な季節の訪れを知ってか、心を和ませてくれるのが「あじさいの花」です、色とりどりの大輪は、太陽の下でも、雨の雫に濡れても、しっとりと美しい姿を見せてくれます。
 田植えの終わった田んぼの隅で菖蒲が花を一杯に開いて雨に打たれていました、ずっと昔からなじみの花なのに、きれいな花だなと気づいたのは降る雨のせいでしょうか。
 この季節、用水の水が増し、田んぼの周囲を縦横に走る水路に囲まれた「水かき場」から発動機の音が響き、勢い良く田んぼに貯め水をする風景があちこちで見られます。
 川面を流れる水が雲を映し、映る雲が水面を流れて行く、時折水中を泳ぐ川魚の姿と蛙の鳴き声、米倉の自然に思いを馳せる、そんなあじさいのころです。



水ぬるむころ
 水が温み、川の流れが増す、遠い昔、人々は山から木を切り出し、松の丸太を槌で杭打ちし、竹を編んで川岸に敷き、モッコで土を盛り、用水路を作り干拓を進めた。
 昭和の中期まで子供たちは、水がぬるむと川に入り岸辺に張り付いた「ふな」や「なまず」そはて「うなぎ」を手で捕えて歓声をあげていた。
 岸辺には、春野の草が茂り、花が開き、蝶がとんでいた。
 今は、岸辺はコンクリートの護岸が進み、春の小川は遠い夢となった、このような風景も間もなく忘れ去り消え去ってゆく。
 
 れんげが咲き、たんぽぽが咲くあぜ道、この道は、岡山市西市と岡山市米倉との境道、遠い昔、西市までは陸地であった、人々は粗朶を組み、もっこで土を盛り堤防を築き遠浅となった海面を干拓し米倉新田を作った、その堤防の後が今もあぜ道として残る。
 そして、あぜ道の内側には、堤防に沿って延びる手掘りの塩止め川の痕跡を留める。
 春になると「れんげ」が咲き、「たんぽぽ」が花開く、今はこの道を通る人影はない。
 この道はいつか来た道、このような風景も間もなく忘れ去り消え去ってゆく。



春を待つ
 季節の変化は、日の長さや気温の変化など気象現象によって移り変わります、しかし私たちが季節感を感じるのは、花が咲き、虫の声を聞き生物の営みに触れたときです。
 今年も、常慶寺の境内で「ろうばい」が淡い花を付け春の音連れの近いことを告げています。
 今の季節、町内の要所で関所札、別名魔除け札を見かけます。「日神祀太玉串町内安全守護」のお札が青竹に止められて町内の中央部火の見やぐらの付近と東西南北に立てられます。
 米倉東講中、米倉西講中など四組の講が今も正月月・五月・九月の吉日に当番の家に講中が集まり宮司さんを迎え、またある講はお上人を迎えて「お日待」の行事がとりおこなわれます。
 起源は定かではありませんが、町内へ悪魔・病魔が入らないよう宵に神仏を拝み、夜明けに縁側で日の出を拝む行事として続けられてきました。
 今では簡略化されましたが、伝統行事として続けてほしいものです。
 寒空の中、子供たちが元気に春田を走る姿が夕映えに照らされ郷愁を感じさせます。