後世への記録(記録シリーズ・年間行事)



お正月
元旦
 正月は、元来、それぞれの家へ年神様をお迎えして、お祭りするのが習わしです。
 そして、正月休みは、年神様が家におられる間、その神様とともに御籠りをするという意味から仕事を休み、神祭りに励むとされていました。
 かつては、大晦日から氏神様のお社で過ごす「年ごもり」の風習もありました。
 また、昭和の初めころまでは、旧正月を祝うのが普通でした。特に農家では、藺草植えの真最中で、形ばかりの雑煮を祝い、すぐに田圃に出て働いていました。 

お飾り(注連飾 しめかざり)
 注連は、「神の占め給う地域」を意味しており、正月の注連飾りは、邪神を払い年神様をお迎えする聖地であることを示しています。
 お飾りは、新藁でさまざまの形のものを、自分の家で作りました。裏白・ゆずり葉・昆布・ほんだわら・橙などで飾りを付けました。
 裏白・ゆずり葉・昆布・ほんだわら・橙などは縁起物で、長寿や家内安全・繁栄などの願いを込められています。

鏡餅(お座餅 おすわり)
 大小二つの餅と豆餅一枚がひと組で、お床・神棚・仏壇などに供えます。
 重ね餅の上に、やはり縁起物の裏白・昆布・ほんだわら・橙・干し柿などを乗せます。
 縁起物はお飾りと同じですが、干し柿は左右に二個宛て、中央が六個で「今年も、にこにこ睦まじく過ごすように・・・・・」との願いを表わしています。

雑煮
 正月は、どの家庭でもお雑煮を食べてお祝いします。
 その雑煮は、古代から貴族社会で行われてきた歯固めの習慣が変化したものだと言われたり、餅やいろいろな材料を煮込んで作っていた中世の烹雑(ほうぞう)がなまったものだとも言われています。
 いずれにしても、大晦日に年越しの神・大歳神をお迎えして、お供えした飲食物をお下げして煮込み、それをいただくことによって、神仏のお加護を受け、健康と長寿を願うものだったようです。

 雑煮は、この地方ではあまり特色がありません。餅の形は丸餅と角餅(切り餅)があり、それをゆで、味付けは醤油味・味噌味があり、具は、ほうけん草・にんじん・大根・くわいなどの野菜。鰤・鮭などの魚類。牡蛎や藻貝のような貝類。鶏肉などの肉類。だしは、こんぶ・削りかつお・煮干しなどを使いました。
 家によっては、笹が瀬川で捕れた「鯊(ハゼ)」を焼いて干したものを使いました。

七草粥
 正月6日は摘み初めで、七草を摘み年神様に備え、翌7日に春の七草を入れた七草粥を食べる習慣があります。
 冬の寒さに負けずに芽吹いた七草の生命力にあやかり、これを食べると病気しないと言われています。
 春の七草は、セリ・ナズナ・ゴギョウ(ハハコグサ)・ハコベ・ホトケノザ・スズナ(カブ)・スズシロ(大根)です。

小正月とお飾り下ろし
 正月15日を小正月と言いました。旧暦の15日は満月で、この頃、年初めの神祭りをするのが習わしでした。暦が採用されてから元旦が大正月となり、15日が小正月と言われるようになりました。
 注連飾りは、正月14日に下されます、下ろしたお飾りは、小正月(1月15日)に村はずれの(道祖神を祀った所)ドンド場で村中のお飾りを集めて焼いていました。
 また、小正月には、鏡餅も下ろし、ドンド場で焼いて、しる粉などにして食べる習慣があります。


木野山神社代参(代表参拝)
 明治10年前後、米倉村をはじめ周辺の村々が疫病に苦しんだことがありました、高梁市津川町に鎮座する木野山神社が疫病に霊験あらたかなことを聞き、村の代表が木野山神社に参拝し、その分霊を米倉にお迎えしてお祀りしました。
 代参の人々は、電車もバスもないころ、おそらく朝暗いうちに米倉をたち、この道を歩いてお参りし、夕は星を仰いで帰り着いたことでしょう。
 いただいたお札は、それぞれの家庭に配られ、釜屋のすすれた柱に貼られ疫病の退治を祈りました。
 今も、先人の想いを絶やすことなく地区住民代表が毎年交代で桜のころ木野山神社の祭礼に合わせて参拝します。



地神様の祭礼
 農村地帯を走ると、道路に沿って「地神」と太文字で刻まれた自然石を良く目にします。米倉にある地神様は高さ1m位の五角形の石塔で、国道建設で移設され今では木野山様と並んで奉られています、なお設置年代は不明です。
 石の五つの面には五神が刻まれています。
 天照大神
(あまてらすおおみかみ) 太陽の神で女神。
 大己貴命
(おおなむちのみこと)  (大国主命)国造りの神。
 少彦名命
(すくなひこなのみこと) 穀物に宿っている神。
 埴安媛命
(はにやすひめのみこと) 土に宿る神。
 倉稲魂命
(うかのみたまのみこと) 五穀をつかさどる神。
 地神様は一般的に田の神で、地方によって農神、作神、作り神、亥の神などとよばれ地神信仰は江戸時代から明治中期にかけて全県的に流行し、各地に「地神」碑が建設されています。
 一般的に正面が山の開いた方向、太陽を見る方向に向けてあるのは農耕神(太陽信仰)のあらわれとされています。
 地神は年に2回祭日があり、社日(しゃにち)の日と言われ春には生育を祈り、秋には収穫のお礼参りをしました。
 社日とは、春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日とされ、この日土地の神が土から出て空にうかび秋の社日まで、農民の作業を守り豊作をもたらすとされています。
 春の社日には新しい注連(しめなわ)を張り、神酒と季節の収穫物などを供え、地域の人が集まり、神官を頼んで地神祭りをしています。
 またこの日は金忌(かねいみ)といって鍬(くわ)を使うと地神様の頭に鍬を打ちこむことになると言って野良仕事を休みました。
 もしこの事を知って土を動かしたら七代貧乏、知らずに動かすと一代貧乏と戒められました。



水神様の祭礼
 備前平野一帯では自然石に「地水両神」として広く奉られています、地区の中心部に牛馬神と並んで正面が南に向いて奉られており毎年地域の人たちにより祭礼が行われています。
 米倉地区の地水神は、石の五面に天照大神・大己貴命・少彦名命・埴安媛命・倉稲魂命の五神が刻まれています、なお敷設年代は不詳です
 水の恵みに感謝し、水の事故の無いよう、そして豊作を祈る行事で、米倉地区でも木野山様の祭礼の翌朝に神官を招いて水神様の祭礼を行い、地域住民で伝統行事として守り引継がれています。
 また、夏野菜の初なりを水神様に奉げる風習があり、今も「なす」「きうり」等の初物を家族で食する前に1個川に流す家もあるようです。



お日待(正月・5月、9月)
 宗派によって講家という互助扶助組織の仲間を作りました。講中では、お互いの家の親睦、講中の家内安全・身体健全・息災延命・五穀豊饒を祈願する風習がありました。
 その一つに”お日待ち”があります。字の通り、日の出を待ち、これを拝む太陽信仰に由来するものて゛あります。お日待ちのマチは神に侍座する意味があるようです。
 その当日は、当番の家に籠ります。正面に大きなお座り餅や御神酒などのお供えが飾り付けられます。
 各家から一人あて集まり、まず読経をし、その後、酒と精進料理が出されます。そして、夜を徹して日の出を待ち、また読経をします。
 こうした行事の後で、お供えのお座り餅は、各家の数に切り分けられ、それぞれの家に持ち帰られます。
 現在では、簡素化され、お日待ちとは言え、夜集まって続経の後、酒を酌み交わしお座り餅を切り分け、お開きというようになりました。
 そして、「日神祀太玉串町内安全守護」のお札が青竹に止められ町内の中央部火の見やぐらの付近と東西南北に立てられる。
 地域に悪魔・病魔が入らないようにと。



節分
 節分は、季節の移り変わる堺となる時で立春や立夏・立秋、立冬の前日ですが、特に春の節分が重んじられてています。
 この立春から、新しい年が始ります。節分には、年神様がやって来て、祝福を与えてくれると考えられていました。
 また、節分には豆まきをしました。中国では、周の時代から、12月末に悪夢を払い、疫病を除く追儺(ついな)の儀式が行われていました。
 日本では、文武天皇の時代、疫病が流行して農民が多く死んだため大晦日に土牛を作って追儺(ついな)をし、以後、追儺式を行ったとされています。
 この宮中の儀式が室町時代になって、鬼(邪気・悪霊)が外から入ってくるのを追い払う「鬼やらい」の行事になり、豆まきになりました。
 そして、江戸時代になり、民間の豆まきと古式追儺を一緒にした形で今日のような節分祭の豆まき行事が出来上がりました。

 立春には、「立春大吉」という字とか、護符の文字を書いた紙を門柱に貼る家もあります。
 また、柊の葉に鰯の頭を付けたものを腰板の節穴などに刺して、外からの邪気の侵入を防ぐ習わしがありました。


ひな祭り
 3月3日は雛祭りで、五節句のひとつです。この地方では1月遅れの4月3日に行われました。
 子どもたちは、女の子のいる家を祝って回ります。これを”雛荒らし”と言いました。
 その家で赤飯・巻寿司・それに白酒を御馳走になり、お菓子などを貰い楽しいお祭りでした。



舟遊散 (ふなゆうさん)
 4月3日の雛節句のお花見です。川舟をきれいに掃除し、ゴザ座布団を敷き、手作りの御馳走を重箱に詰め、お茶・お菓子を持って子どもたちは乗り合わせ仲良く食べながら水の流れに時を過ごしました。
 舟の中では、お手玉・あや取り・椿の花の首飾り・椿の葉の帆立船・笹舟作りなどで遊んでいました。
 男の子は、トランプ・将棋、そして早漕ぎ競争などでした。
 両岸には真菰が茂り、柳が芽吹き、その下を舟はゆっくりと流れていました。
 川の水は豊富で水はきれいで魚がたくさんおよいでいました。懐かしい行事でした。



お彼岸供養
 春分と秋分の日を中日として前後3日、計7日間を「彼岸」と言います。
 彼岸とは、サンスクリット語の波羅蜜多の訳で、彼岸(祖霊界)と此岸(シガン 現世)があって煩悩の此岸から深い知識の世界である彼岸へ、それを目指して今日を精一杯生きるというのが波羅蜜多の意味です。
 彼岸には、お寺や先祖のお墓参りをするのが習わしです。



花祭り
 卯月(4月)8日(旧暦)はお釈迦様の誕生日です。一般には花まつりと言っています。
 この行事は、606年奈良の元興寺で釈迦像に甘茶をかけたのが始まりのようです。
 甘茶は参拝者に振る舞われ、その甘茶で墨をすり、習字をすると上達するとか、また、紙片に「茶」の字を書き、門に貼り付けて虫よけのお呪いにする家もあります。


端午の節句(菖蒲)
 5月5日は、菖蒲の節句・端午の節句と言い、男の子の節句です。
 五節句の一つで、悪霊や邪気をはらうためのお祭りです。
 端午は初めの意味で、5月の初めての午の日に節句をしていたのが重日思想の影響で5月5日になりました。
 古来、中国では端午の日に菖蒲や蓬(ヨモギ)を門にかけたりする風習がありました。
 これが、日本に伝わって宮中の厄払い行事になっていました。さらに、武家社会になり、菖蒲が尚武に通じることから、男子中心の勇ましいものへと変わっていきました。
 4月終りころから、吹き流しの鯉のぼりが立てられます。武者絵や昔の英雄などの幟も立てられます。
 床には、金太郎・首が上下する張り子の虎・鯉のぼりのセット・鍾馗様などの人形、それに掛け軸など飾りつけられます。
 中国の故事に、鯉は、竜門(黄河中流)の急流を登り切り化して竜となるといい、これが「鯉の滝登り」として、立身出世のシンボルとされています。
 わが国では、江戸時代中期から男の子の健康と出世を祈って立てるようになりました。

 毒けしのため菖蒲湯にはいったり菖蒲・蓬・栴壇の葉を束ねて屋根に投げ上げるか、門にかけるなどの厄除けの習慣がありました。
 また、端午の節句には、粽(チマキ)や柏餅を食べる風習があります。
 粽は、中国に起源があり、わが国にも平安中期に既に作られていたようです。
 もち米・粳米(ウルチマイ)などで作った団子で、先をとがらせて細長い三角形に固めて笹などの葉で巻き、藺草で縛ります。
 古くは、茅(チガヤ)の葉で巻いたので「ちまき」といったようです。茅は葉先が鋭く香気が強いことで悪霊払いの効力があるとされました。
 柏餅は、節句に食べるようになったのは、江戸時代の中期のころで、柏の葉には薬効があり、また、柏の葉は新芽が出ない限り古い葉が落ちないところから家系が絶えないという縁起をかついだと言われています。



茅の輪くぐり
 旧暦の6月晦日に神社で行われるお祓いを、六月祓い(みなつきはらい)
とか夏超(なごし)といいます。
 茅(チガヤ)で作った輪を人がくぐりぬけるものです。これは、茅(チガヤ)の霊力によって悪霊や災難から逃れ、豊作を祈るというものです。
 宗忠神社では、7月の晦日に行われ、禊(みそぎ)祭りと言いました。
 お参りして、茅(チガヤ)の輪をくぐり茅(チガヤ)を抜いて持ち帰り家の入口に置いて厄払いとしました。


川掘り
 十二箇郷用水は、備中東南部十二箇郷一帯の平野をうるおし、その灌漑面積は約5千ヘクタールにも及び、この用水の水源である湛井堰は高梁川の上流に位置し、用水期間中は高梁川を堰き止めて十二か郷の村々に引水されてる。
 祇園用水は、旭川から水を引き、祇園大樋で新田用水、古田用水、後楽園用水、外田溝用水などの幾つかに分けられ、旭川の左岸、備前平野一帯をうるおしている。
 昔は灌漑面積千八百ヘクタールといわれ、備前の穀倉地帯の灌漑用水を賄って来た。
 このうち古田樋尻川は、百間川から東側、高島、幡多、財田、古都、富山、さらに浮田、可知まで約千ヘクタールを山手川と中田川の二つの用水路とその支線で灌漑している。
 管掛用水は、岡山市玉柏地崎に旭川の取入口を有し、三野から南方に入り西川用水となり市内西北部一帯を灌漑した後、笹ケ瀬川左岸地区を灌漑して、平田から米倉に至る。余水は米倉大樋門から笹ケ瀬川に放流している。
 また、西川から分流した、枝川水系は旭川の西側一帯をうるおし、備前の穀倉地帯の灌漑用水を賄って来た。
 「上郷のものには、牛にも頭を下げろ」と言われた時代から、下流干拓農民にとって生活用水、農業用水の確保は村人にとって重要な事業でした。
 今も、この時期に下流各地域の町内から代表が出て西川・枝川水系の清掃作業に当っています。
 また、町内を流れる用水の川掃除が今も町民総出で行われます。

 この用水は生活用水として、また農業用水として水神様を奉り大切に守って来ました。



木の山様の祭礼
 この小祠は、県道児島線と国道2号高架橋との交差した所の南にあります。ここは米倉46番地で米倉公会堂のすぐ北側です。
 米倉公会堂の北側用水路沿いに石の囲いがあります。この囲いを入るとすぐのところに南向に石製の地鎮様があります。その奥に、やはり南向の祠(ほこら)があります。これが木野山様です。主な祭神は、大山祇(おおやまつみ)命、豊玉彦(とよたまひこ)命、大己貴(おおなむち)命です。
 木野山神社については、つぎのような話しが伝わっています。
 明治10年前後に、米倉村はじめ周辺の村村が疫病(伝染病)で苦しんだことがありました。高梁市津川町大字今津に鎮座する木野山神社が、疫病に霊験あらたかなことを聞き、村の代表が木野山神社に参拝して、その分霊を米倉にお迎えしてお祀りをしました。
 安政5年(1858年)に全国で大流行し、死者の数は30〜40万人にも上ったといわれます。岡山では藩士が33人町人が166人亡くなったとの記録がありますので分霊勧請はこの時代ではなかったかと想像されます。
 明治になってからもコレラは猛威をふるい、明治10年(1877年)、明治12年、明治35年と大流行しました。この時も木野山神社の御輿
をこしらえて、米倉から当新田の七番・六番を通り三軒屋あたりまで練り歩いたそうです。これを機にさすがの猛威をふるったコレラも終わりを告げたと伝えられています。
 毎年夏7月の頃に祭りが行われます。また戦前は盛大なお祭りとなり、備中神楽や芝居などが奉納されていました。
 今も伝統行事として7月の上旬に神官を招いて祭礼を行い、先人たちの思いを絶やすことなく地域住民で守り引継がれています。




七夕(たなばた)
 星祭です。この地方では月遅れの8月7日に行われます。
 竹笹に願い事を書いた五色の短冊を吊るします。
 朝早く、里芋・稲・蓮の葉に付いた露をお盆に取ってきて、それで墨をすり、五色の短冊に思い思いの願い事を書いて竹笹に付けました。
 
 七夕は、畑作の収穫祭と、盆迎えのお祓いの信仰に中国から伝わった星の伝説、そして乞巧奠(キコウデン)(奈良時代宮中で行われた、女子が手芸が巧みになることを祈る祭事)の行事が混じり合って今のような形になったものと考えられます。
 行事は7月7日の夕方行われるので七夕の文字を当てたのだと思えます。
 万葉集に「織女」とあり、新古今和歌集には「七夕」と書かれています。
 江戸時代になって7月7日が5節句の一つとなっています。
 
 こうして、七夕が祭られ、飾った竹竿を門先に立てナス・キュウリなど農作物を供え収穫への感謝の気持ちを現わしています。 


盂蘭盆(お盆)
 盂蘭盆は、先祖の霊をまつる行事で、昭和20年
頃までは旧暦の7月13・14・15日でしたが何時のころからか8月13日から三日間となりました。
 盆の由来は、わが国に古来から行われた先祖の霊をまつる風習に、仏教の盂蘭盆が結び付いたとされています。
 この盂蘭盆は、旧暦の7月15日に祖先の霊に食物を供えて冥福を祈ったり、餓鬼に施し、その苦しみを救う行事です。
 これは、釈迦の十大弟子の一人「日蓮」が餓鬼道に落ちて苦しむ母を救った故事によると伝えられています。
 
 各家では、お床に先祖の位牌をまつり、その前に果物・野菜・餅・千菓子などの菓子類・乾物などを供えて香をたき燈明をあげてお祀りします。
 毎晩、日暮れとともにお墓にお参りして燈明や線香を立て「水の味」(お米とナスの千切り)を供えます。
 庭先に水棚を作り、燈明台を拵えて夕方迎え火を焚きました。この棚を精霊棚と言います。
 僧侶がお盆に檀家を回って読経するのを「棚経」と言いますが、これは、水棚に向かって続経していた名残だと思われます。
 初盆(新仏)の家では親戚から提灯が贈られ軒先に吊るし燈を点して供養します。
 盆の終わりの15日には灯籠流しといって、真菰で作った舟にお供えを乗せて灯明を点けて笹が瀬川の引潮に合わせて夜半に川に流しました。



お月見
 旧暦の8月15日は、「仲秋の名月」「十五夜」で月見の行事が行われます。
 名月の観賞は中国から伝わってきました。中国では、秋の90日の真ん中に当たる日と言う意味から中秋節の行事を行いました。
 わが国では、平安時代の延喜9年(909)8月15日、宮中で詩歌管弦を奏でて月見の宴が初めて開かれたとされています。
 この名月の観賞は、日本人の心に溶け込み季節感あふれる行事として浸透してゆきました。
 一般家庭でも、ススキを飾り、月見団子などをお月さまにお供えし月見の宴を催します。
 「丸いもの食べると良いことがある」と言って月見団子や梨などをお供えして食べます。


お宮のお祭り
 西市天満宮の創建は天文元年(1532年)6月1日である。山城国北野の天満宮を勧誘し、当時の下中野村・西市村・京殿村が氏子区域でした。
 天正8年(1580年)3月3日、内山下榎馬場の今村宮を現在の地に遷座し下中野村が今村宮の氏子となり寛永12年(1637年)岡山藩主池田光政公の墾田として、米倉村・万倍村を天満宮の氏子区域となりました。
 西市天満宮の春祭は5月、夏祭は8月
、秋祭は10月に祭礼が行われます。
 春秋2度の祭りは、農業、ことに稲作の初めと終わりに当たり、豊作を祈り、感謝を捧げるものです。
 以前は、境内で相撲が興行されたり芝居などが奉納されていました。



道普請
 
昔は砂利道で道の両側には草が生えていました、この草を取り、道の凹みを馴らすことを「道普請」といって村の行事でした。
 時に、舟で笹が瀬川の砂を運んで道に撒いて道の嵩上をしました。
 この砂にシジミなど貝類が混じっているのを子どもたちは拾っていました。


お講
 弘安5年(1282)旧暦10月13日は日蓮宗の開祖日蓮上人が入寂された日です。
 備前法華と言われるように日蓮宗の多いこの地方では講中の人が祖師堂に集まり続経して祖師をお祀りします。
 また、講によっては今も毎月12日か13日に月並のお講をしています。


年の暮れ
 おせち料理(お節料理)
 これは、節日(せつにち)につくる料理という意味です。
 材料には、普段と異なり縁起ものが多く使われます。黒豆はまめに暮らす・昆布はよろこぶ・橙は代々富貴・スルメは寿留女に通ずるめでたい材料とされています。
 
 
除夜の鐘
 除日(旧年を除く日)の夜の意味です。大晦日の晩のことをいいます。この夜半、各寺では108の鐘をついて新年を迎えます。
 百八の数には、いろいろな説が言われています。一般的には、人の煩悩(人の心身を悩ます欲望)の数であり、鐘の音でその一つ一つが解脱(苦悩を克服して絶対自由の境地に達すること)するといわれています。
 年の変わる深夜、鳴り響く鐘の音は、物静かに心にしみ込み、迎える新年の平穏を祈っているように聞こえます。