上道北方町内史跡マップ


北方町内にある史跡を下記地図に示します。
町内の史跡巡りを行ってみてください。


写真:石灯籠(金毘羅灯篭) 建立時期不明。すぐ横に共同井戸がある。  写真:祇園神社・木野山神社・荒神様       祇園神社;広島県福山市鞆の沼名前神社から分祀したとされる。時期不明。              木野山神社:明治35年、高梁市の木野山神社から分祀。7月16日が祭り。               荒神様:津山市の福力荒神社から分祀。時期不明。 祇園神社西側の小祀は、右から木野山神社・福力荒神社・祇園神社。  毘沙門堂:現在の祇園神社の辺りに、医光院の毘沙門堂があったといわれる。明治初めには存在していた記録が残る。いつ亡くなったかは不明。  写真:塚段古墳群 6世紀前半から7世紀にかけての古墳。2つの円墳からなる。           塚段1号墳は、直径20m。石室は長さ9.4m。箔入りガラス玉(全国で3個目、ここで出土した連珠の箔入りガラス玉は全国初)、鏡などが発見されている。 塚段2号墳は、全長9.6m。壺の回りに蛇や小壺の付いた[装飾付脚付壺]や、ニワトリ型の飾りなどが出土している。 
 石灯籠(金毘羅灯篭?)  祇園神社・木野山神社・荒神様  毘沙門堂  塚段古墳群
 写真:牛神社(牛神様)  本尊は馬頭観世音菩薩。牛馬を守る仏として祀られたらしい。 勧請年月日は不詳。鳥取県大山寺から分祀か。現在の拝殿は嘉衛年(1851)建立。本殿には、明治時代に奉納された8枚の絵馬が残る。 周囲を巡らしていた土塀が年月を経て損傷が激しく進んだため平成22年に撤去。境内の中央には牛を繋ぐ石柱が有る。平成24年4月の突風で本殿が倒壊し、同7月に修復工事をした。 写真:医光院 寺伝では、承和元年(834)に、現在の薬師前霊園の辺りに開山、歴代住職として初代住職尊教法師が寛保3年(1743)没、北室雄範住職が10代目となる。 現在地には文化11年(1814)に庫裏が作られ、弘化2年(1845)に本堂が再建された。 境内のかりんの木は、樹齢200年。岡山市の保存樹に指定されている。現在も秋には多くの実を付ける。   写真:忠魂碑  日露戦争で戦死された北方出身者4柱の霊を慰めるために、大正元年(1912)9月に建立。戦後、太平洋戦争の戦没者と合わせて16柱を供養する。毎年4月8日にはこの碑の前で招魂祭がおこなわれていた。式典の後は、村じゅうから大勢の人が医光院の大広間に詰めかけ、いろいろな演芸をかわるがわる披露して北方じゅうみんなで楽しんだ。現在は4月の第一日曜日に行っている。  共同井戸:
4ヶ所の共同井戸(遊園地北・医光院・新堂脇・教員住宅前)があった。
昭和30年代に北方単独で簡易水道が、昭和39年上道町で上水道が敷設された
 牛神社(牛神様)  医光院  忠魂碑  共同井戸
 写真:金毘羅灯篭・共同井戸  灯篭に「嘉永元年申八月吉日ー金毘羅大権現ー信者中」とある。嘉永元年(1848)は幕末で、当時は金毘羅参りがブームに成っていた。  昭和15年頃に始まった供出制度に伴って供出米を集めて収める倉庫を北方の村で建てた。
浮田コミュニティーハウス(昭和56年3月落成)が建築するために撤去された。岡山市のコミュニティーハウスとしては3番目、新築では第一号の施設。
 写真:地神様  春は、「春分の日」秋は「秋分の日」に近い戊の日を社日といい、土の神・五穀豊穣の神の地神様を祀る。以前は山陽線の北側にあったが、新幹線工事で今は石田に移転し、平成10年12月に原型の5角柱にした。  写真:竜神様  水の中の動物を支配する竜の姿をした神様といわれる。昔、日照り続きで水不足の時、雨乞いのお祈りをして、雨が降るようにお願いをしたものである。ご神体の甕の底に水を入れると雨が降ると伝えられている。
 金毘羅灯篭・共同井戸  農業倉庫跡・浮田コミュニティーハウス  地神様  竜神様
 写真:コンガラ様の百度石  北方ではコンガラサマともお呼びしていた。今も「百度石」がありコンガラサマに加持祈祷をお願いに来た人が、御祈祷していただいている間、お百度を往復しながら一生懸命お祈りをしたという。北方の神理教の祝詞は熱田八幡宮の祝詞とおなじである。  写真:東ん堂太子堂  本尊は十一面観音(七観音または六観音の一つ)。11の小面を付けた観音で、救済の働きが多面的であることを象徴するといわれる。    
 コンガラ様の百度石  東ん堂太子堂    

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