歴史講演会が開催される!

 
6月16日(日)津倉町集会所で、郷土歴史家を招いて「歴史講演会」が開催されました。
 この講演会は、町内有志による講座会(わいわい亭)が月1回の例会で開催したものですが、今回の演題
 「古代の津倉は、どんな所だったのか?・・・・古文書、遺跡から津倉のロマンを探る!」という多くの皆様
 に関心があるとの思いから広くPRした中で行われました。
 会場は、中高年中心の視聴者でしたが
「津倉で生まれ育ったけれど、初めて知った・・・」と驚きと感動に包
 まれたひと時でした。
 

 講師には、地元の
歴史研究者として活躍されている間野行治氏をお招きしました。 講演は、先生のパ
 ソコンに納められた数多い資料を基に
津倉の地名由来、古文書から見える重要位地の津倉、周辺に点在
 
する歴史遺産の津倉・・・などわが町津倉が他地域から見ると「古代ロマンに溢れた羨ましい地域」である
 ことを教えられた大変意義深くまた興味ある講演でした。・

間野講師   
     
テ ー マ 講 演 要 旨 摘 要
条 理 制 ・西暦646年、大化の改新によって班田収受法が創設された。その時、農地を東西南北の条理(土地の区切り)で区画した。 「金山寺文書」の中に中世の条理地名が出てくるがその中に津倉という地名が登場している。
よく見ると、西ノ城=お城があった(現ヤクルト岡山の裏)。 弁天=水神様が存在。他にも地名から橋詰、二枚橋=観音寺用水に架かる橋があった。
古代の津倉1丁目には、お城があり、豪族が治める中心地であったと想像される。
・現妙林寺あたりが「津倉・津 倉北」と表示されている。

「大安寺伽藍縁起並流記( 資材帳)の中で、西暦740 年には当地が存在していたことが記されている。
式 内 社 ・927年に作られた「延喜式神名帳」の中にある神社を式内社というが、尾針神社はその中のひとつである。珍しい事に狭い伊福郷に4社の式内社が確認されて おり、いかに力を持った豪族がこの地区にいたか想像される。
尾針神社の裏に、巨石群:磐座(いわくら)ある。祭祀場の跡らしい。
・磐座から信仰の京山を拝む 祭祀が行われた。
・国神社も式内社である。
津倉の地名 古代の当地は陸地の境にあり、津は海湾を現し、周辺に倉庫があったらしい。
津倉 古墳 古墳時代の4世紀初頭に「津倉古墳」が造られた。有名な造山古墳よりも1世紀早く 登場する。古墳規模は、全長38m、高さ2mで未掘のため詳細は不明。珍しいのは 形が「前方後方墳」で数が少ない。
・古墳の形式から、かなり身分の高い人物のものと推察されると同時に、津倉地区が太古から歴史の表舞台にあったことが想像される。。
前方後方墳の図参照
観音寺用水 「観音寺用水」は、古文書の分析から自然に出来た川である。主流に見える座主川(ざすがわ)」が、人工的に造られた川であろう。
そ の 他 ・「備前記」によると、当地は「むしろ」、「畳の床」を打って産業としていた時代があった。
  講演の資料 
条理復元図

津倉古墳は、前方後方墳
 会員の持参資料