津倉町「祭りだんじり」の謎を探る

先月(10月20日)備前岡山だんじり文化研究会という団体から取材申込みがあり、津倉町のだんじりについて調査をお願いしていたところですが、  途中経過の報告がありましたので皆様にお伝えします。(だんじり研究家田中豊氏)

津倉町のだんじりは、それに記されている文字より文久2年(1862)〜明治13年(1880)に活躍した備前岡山の和久田國太郎の作と判明。作られた時期はその図柄から幕末と推定される。
理由として江戸期のこの時期は幕府も池田藩も奢侈を戒め、取り締まった。そこで彫物師は地味で小ぶりで穏当な図柄を求めざるをえなっかた。これは浮世絵、芝居など他の芸能でも同じことが言える。しかし明治になると事情は一変、自由奔放、大胆、派手で大ぶりな図柄が作られるようになり和久田國太郎の作風もこれに倣う。

津倉町のだんじりの側面は一方が虎と竹の図、虎の唯一の敵は象であり、身を守る安全な場所は竹林であり、従って虎と竹の組み合わせは安心、安全の象徴として彫刻の題材になったと言える。だんじりの一方の側は獅子と牡丹の図柄。(唐獅子牡丹は映画でお馴染み)屏風絵になるほど昔からの美術的題材。明治期になると別の図柄が登場するということです。 

また、津倉町町内会の倉庫の二階の長持ちの中から保存状態のよい獅子頭布製の胴の部分をつけたまま発見されました。文献によるとだんじりと獅子頭はセットであったはずだということです。獅子頭はまた鈴と剱(つるぎ)とが一体のものであり、剱は同じ長持ちから発見されました。獅子頭の一本角(つの)は幕末の特徴でありますが、残念なことに片方の耳は紛失しています。獅子頭は誰の作かわかりませんが比較的新しいので作り替えたと考えられます。
同じような例は伊福町西町にあります。和久田國太郎の作は津倉の他、御野、平野と言った、城下の外で見つかっており、これまでの通説を覆す発見と言えるでしょう。
 

皆さんもご存知の通り津倉町のだんじりには、立派な「太鼓」がデンと乗っています。かなり古い物ということは、太鼓の張皮の傷みから分かります。  これも同時に調査をお願いしました。<しかし、太鼓の表面からの観察では不明でした。
今後、修理等で内側を見ることがあれば内部に「作者、製作日の印字」があるかも知れない・・・ということでした。



明治初期?の和久田國太郎の作

残念ながら作者不明

虎と笹竹が彫刻されている

獅子と牡丹の彫刻が見える

立派な獅子頭が発見された・・・中に3〜4人は入るのかな?

迫力のある面構えである・・・1本角も特徴

口を空けると赤い舌が見える

剱も木製

尾針神社の秋祭りで披露された「伊島町西町の獅子舞」