有森氏の話
子供時分とは今は全く違ってしまった。
大神神社でも昔の大神神社と全く違ってしまった。昔の面影は全くない。昔は大きな松の木が何本も何本もあり、かくれんぼをしていた。うちの家から山陽本線まで、家は一軒もなかった。土田でも頭高山のふもとに家があって、あれから南はなにもない。田んぼばかり。
南に大鳥居があるが、あれを馬場道というが、明治になるまでお宮の参道で大きな松の並木があった。
大神神社は、平安時代のはじめに全国の神社のことを書いた延喜式神名帳があり、それに
大神神社四座という名前が載っているから今から1000年前からあった。
由緒はある。奈良宮の大神神社のご神霊を分祀したという言い伝えがある。ご祭神も同じ。
最近はやめたがお宮総代が中心になって親神様へお参りにいこうとゆうて、大神神社へ
バスを連ねて何回かいった。
ご神体は、子供が座っているくらいの、なかなかいい神像がある。私もご遷宮のとき(屋根の修理のとき)真夜中の12時に移す時、総代が来てまつって下さるので、何人かの人が拝んでいる。
恐れ多いので、仏教のように御開帳はしていない。逗子の中に納めてある。
私が20歳ぐらいの時、長屋卯三郎氏にうちの親父が、鑑定してもらったら、鎌倉ぐらいのものではないかといわれた。
土で作ったもので, 着色してある。このご神像がいつできたのか私もその経緯は全然わからない。もともと大神神社は、もっと奥、山の方へ有ったとかいたものがある。広いところへ移したと
いうはなしもある。火事がいったというはなしもある。
資料は徳川の終わりのものしかない。
本殿は江戸時代の終わり頃に建てたものらしい。
大神神社も土地はあったが、明治維新で廃藩置県とか地租改正のとき村の人に分けてしまったらしい。
竜の口八幡宮は徳川の終わり頃から。その前は湯迫の神主がおられて西大寺に移ったのでおねがいされた。子供時分、八幡様に登る道は幅50cmぐらいの道があった。夏は腰から下は露にぬれるほどの道だった。。
言い伝えでは、池田の殿様が鳥取から来られて岡山城を築城のとき、あそこが丑寅の鬼門にあたるので、鬼門の守り神ということで八幡様をたて崇敬された。
湯迫のあたりに社地があったが今は不明。
竜の口山は池田の殿様の狩場で,百姓を勢子にして何回か狩りをして兎、猪を捕った。
市営住宅の上の方は放牧地だったらしい。
私は十何代目かの神主さん。十四代目。嘘かもしれない。
書き込みは、未だしていない。こういうものを書いたら、死ぬといわれている。自分は遠慮している。
幕末の平賀元義という歌詠みが書き直してくれたという伝えもある。この人は神主の家を泊まり
歩いて、放浪の旅をした人。3ヶ月くらい逗留して、歌を詠んだり書をかいたりした。初代はいんちきだろうと思う。
大三輪神社、ここも大三輪神社といっていたが、おおみわがいいにくいから、いつのまにか
おおがになった。
このあたりは、土師の森といわれていた。土師のみやに鎮まりますとかいてある。岡長平という有名な人がいて、土器を作っていたにちがいないといわれたが、私も相異ない。
寛文八年に
京都までうらべ神道から神主の免状をもらいにいっていた。その前は分からない。
昔から式内卿社。 大神きゅう記
明治になって、社格をつくった。官幣社、県社、卿社,村社、無格社
3年前に妻をなくして、年々不自由になってくる。
竜の口八幡宮について;第二次大戦のとき武の神様で、鎌倉の源氏が八幡宮を崇敬していたので、全国のさむらいが八幡宮を建て全国の3分の一くらいは八幡宮の名前が、ついている。私の学生時代には岡山県の南の方では、兵隊に行くとき拝みにきていた。大勢神主が寝泊りしていた。神主を頼んでいた。
戦争が終わったあと、つぶれそうになった。私も神主の学校へ行ったが新制中学ができたとき、教員が大勢いるということで旭東中学に1年間勤めた。小学校の教室を間借りしていた。財田小,幡多小、古都小、高島小の四つ小学校の教室を1つ2つ借りて旭東中学が新制中学の始まり。いったときはチョークもない。1本貸してくれませんか、から始まった。最初は6か村組合立旭東中
学校で財田小、幡多小、古都小、可知小、富山小、高島小。
最初は寄せ集めのひとで、正式の教員の経歴の人はいない。教科書らしいものもなかった。授業らしいものができなかった。学校らしいところはないかさがしていた。瀬戸高校に2年,高等女学校と新制高校が瀬戸高校で、2年勤め、朝日高校にずっと30数年勤務した。高校の先生をしながら八幡宮の神主をした。退任は1年早くやめた。
朝日高の名物先生の高木さん、平岡さんが、飲んだあくる日は1時間早く来いという具合に
厳しかった。365日休みはない生活をしていた。総代がよく協力してくれた。
朝日高はすることだけしていればよかった。校長も教頭でも,祀りなら帰れ帰れといってくれた。
おおらかだった。同僚も文句を言わなかった。ここ10数年からきびしくなった。
私が42歳のとき、父が死亡。72歳。42歳のときから両宮の宮司職を継いだ。
私は朝日高におるとき、平岡さん、土井さん、高木さん、佐藤氏などと、民族学会に入っていて、
県下を歩きまわっていた。民俗学は現地に行って調べる。宮司になってやめた。朝日高の土井さんが岡山県のうったて。吉岡三平、土井、桂又三郎が、岡山の民俗学を設立した。村誌を書くとき,民族学編を入れて本をだした。
大正12年生まれ。有森家の長男。
八幡様が、武運の八幡様から、学問の神様になったのは、何事も、入試も争そいで、戦前でも
六高、一中を受ける人もお参りしていた。戦前は、兵隊に行く人が大勢お参りに来た。
戦後になると,六高、一中を受けた人の子供や親類の子が参り、口づたえで参り、戦後は試験が難しかったのでお参りをした。
神主になるために、東京の国学院にいった。お伊勢さんの神宮皇学校もあったが、
万葉集の研究の大家折口忍先生と武田ゆうきち先生の有名な先生が二人おられたので。
途中で兵隊にいった。文科系の学徒は全部学徒出陣。20歳だった。今岡大のところにある
48部隊に入ってなぐられけられもした。3ヶ月で1期の検閲。そこで将校になるか下士官になるか分かれる。私は入ってしばらくして靴擦れとしもやけで、銃が握られなくなった。洗濯もしたし、靴はカタチンでくつずれ。甲種・乙種幹部候補生になる試験を受けていないから乙種幹部候補生になると、とたんに立川航空整備学校へいって最後までいた。そこを卒業すると、全国の、外地の飛行機整備にいったが、あとからくる連中を教える10人だけ残って、後へ伝える人になったので、生きている。運命ということでしょうか。外地へいく連中が恨めしそうな顔をしていたのを今でも覚えている。終戦。
帰ってきて、学校へ帰ると卒業論文を書かなくてはいけないが学校へ行けばあんたらがまだ学校にいてくれては困るということだった。売り食いの生活だった。
すこうしお米を持って汽車に乗り込んで、論文を書きに図書館通いしにいった。泊まる所もないから爆弾で天井に穴が開いた柔道場で寝起きした。少しの米でなんきんを沢山入れて飯ごうで炊いて食べた。それがなくなったら家に帰った。
列車は窓にガラスがなく,冬には関が原で窓から雪が吹き込んできて、隣の女の人の番傘の中にいれてもらって東京へいったこともある。卒業。
半年ほど家にいた。仕事がない。隣の家の百姓の手伝いをしていたが、新制中学の教員の話があり教員になった。
その頃の旭東中学の3期生(昭和23年)は、今でも同窓会に呼んでくれる。初めの頃の生徒の方がよく覚えている。
私は、今でも死ぬまでに横田基地、ふっさというところで、今の横田基地に行って見たい。
広い広い飛行場で、向こうの山がはるかに地平線が見える。武蔵野の面影が充分残っいてなつかしい。新緑が燃えてくる季節には家々が見えなくなり、秋になると葉が落ち木立がつづく。


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