今から351年前の江戸時代、岡山藩主池田光政のとき、承応3年(1654年)7月19日、台風と豪雨により旭川が決壊し、岡山城下では4千戸の家屋が破壊・流失して、郡部も大被害をうけた。土田村も大災害にあい、大飢饉に見舞われた。稲は白穂になり、ほとんど収穫皆無の状態になった。村民は草の根まで食べて命をつないだと伝えられている。この時でさえ、藩から、所定の年貢を反当り5俵納入するよう迫られ、完納できないときには責任者が入牢1年という掟になっていた。日ごろの村の世話役も、このことまで責任を取るわけにはいかないとなり、議論の末、改めてクジ引きで担当責任者を決めるしかないということになり、クジ引きの結果喜兵衛さんが「ビンボウクジ」(「悪クジ」)をひいた。喜兵衛さんは、米納入につき村の代表として全責任を負うことになった。無いものを納めるわけにはいかない。その代わり1年間牢獄入りとなる。村人の代表とはいえ入牢は栄誉なことではない。喜兵衛さんには妻子5人の家族があり、その生活をどうするか。喜兵衛さんは、いろいろ考えあぐんだあげく、勇気を出し思い切って名主のところへいき嘆願した。「年貢を負けてもらうよう計らっていただきたい」。名主は「順序が違う」とにべもなくこの願いをはねつけた。喜兵衛さんは悩みぬいた。もはや妻子5人の処置と自決しかないと思い定めた。
次の年、1655年春まだ浅い日、先ず妻子5人に手を下し、自害した。喜兵衛様は村人の代表・年貢納入者として、土田村民の身代わりになった。 |
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