
| 土田村で守り、語り継がれてきた大明王 |
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喜兵様のことについては、言い伝えのほかに墓碑と石碑しか残されていない。土田の大恩人を村人はいつまでも忘れず、今も春秋の彼岸入りの日に、土田村の人々が祠内外の清掃を行い花や果物などをお供えしている |
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| 山端山墓地入り口にある墓標 智浄信士 俗名城君、 家内5人霊の墓。 |
「為喜兵衛子共五人親子六人之」の石碑 元禄5年(1692年)11月12日、土田村中として、喜兵衛様の住居跡に建てた石碑 |
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| 悲痛・凄惨・言語に絶する痛ましい限りである。 | |
| この痛ましい犠牲がはらわれて、村人はとにかく事なきを得、子々孫々の今日がある。 | |
| 大災害後、当時の上道郡では賃銭を稼ぐために、盲人、女性、子供なども、ざるや小桶などを持って復旧工事の砂取りにきたという。(岡山市史より) | |
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| 祠内に石碑と共に納められている石仏 | 「大明王菩薩喜兵衛様」を まつる祠堂。大正14年 (1925年)3月8日に、村人が中心となり、村内・近隣の寄進を得て建立された |
祠内正面上の縦額 祠堂の新築落成の時、村人から贈られた尊号 |
| 喜兵衛様が自害した翌年もまた、村人は台風で苦しんだ。人々は喜兵衛様のことをしのび、その恩義を忘れてはならないと戒め合ったという。 |
| 大明王・菩薩 喜兵衛様(岡山市土田福寿会)から |