身近にある信仰石造物(続)
 
地神(じじん)さま(心の拠り所)

                            正 富 博 行

 地神さまのまつりは「」という日ですが、この日は春分・秋分にもっとも近い前後のつちのえ(戊)の日で、現在は3月20日前後と9月20日前後が社日となります。江戸期においては2月と8月が社日月となっていました。

 地神さまに刻まれている建立月日をみますと、江戸期から明治期にかけて2月もしくは8月が多く見うけられます。一例として、国府出村の地神さまには「春二月吉日」と刻まれています。
国府出村の地神さま,台座拡大


「明治五年春二月吉日」と刻まれている

 ところで、この社日に地神さまをまつるということは、どういうことなのでしょうか。そもそも社日は「社」をまつる日という意味で、中国から伝わった考え方です。元来、「社」とは大地の神という意味であって、大地を象徴するとともに天と地を結合する機能も保持していました。(このため地神碑に覆いはつけません。)

 「社」は、中国において土地の守護神であり、かつまた農業の神であり、従って農民は春に地神さまに詣でて作物の豊作をいのり、秋に収穫を感謝したということです。よって、「社」は農業社会にあっては里人の精神的拠り所となり得たのです。また、社日は祖先の観念とも結びついて、祖先を祀る日でもあったようです。
 中国から伝わってきた「社日」という観念は、次第に日本社会に浸透していくことになりますが、その一方途が俳句によるものであったように思われます。
 江戸期の俳句に関する書物には「社日は春分・秋分に近き前後の(つちのえ)の日なり。五穀の神を祭る日」と記述されており、詳述はさけますが、江戸期には文人や知識層を中心に俳句や和歌の創作活動がさかんに行われていました。もちろん、岡山においても例外ではありません。特に、江戸後期には日本固有の文化を追求する国学がさかんになり、それらの活動がさらに活発になったようです。
 また、民間宗教者の活動によって暦としての知識の中から社日思想が民間に浸透していったルートも考えられます。(江戸期の書物である「増山の井」、「滑稽雑談」などが社日観念の醸成に寄与したことでしょう。)これらはおそらくあざなえる縄の如しだと思われます。

ともあれ、江戸期から始まった新たな信仰としての社日を祭日とした地神碑建立に際し、既に浸透していた社日の知識がそれを容易にしたことは想像に難くありません。

 なお、天明年間に発刊された大江匡弼の「春秋社日ショウギ」には重要な記述がみられます。それは、地神碑を「村里において、田の畦又は路傍の清浄なる土地を選んで」そこに建立しなさいと指示していることと、社日には村人全員が地神碑に詣でることがのぞましいと記していることです。
 今は昔の物語なのでしょうが、おそらく第二次世界大戦前までは多くの集落で春と秋の社日に人々が地神碑に詣で、春は五穀豊穣を、秋はそれへの感謝を祈りつつ、盛大にお祭りが行われていたことでしょう。農業社会の変質に伴って、その習俗は急速に忘れ去られているようです。社日も遠い昔のこととなりました。
 今は昔の物語なのでしょうが、おそらく第二次世界大戦前までは多くの集落で春と秋の社日に人々が地神碑に詣で、春は五穀豊穣を、秋はそれへの感謝を祈りつつ、盛大にお祭りが行われていたことでしょう。農業社会の変質に伴って、その習俗は急速に忘れ去られているようです。社日も遠い昔のこととなりました。
 ところで、現在、備前国府地区再生へ向けた取り組みがなされようとしていますが、その中で地区を一望できる頭高山に展望台や散策路を設け、公園として整備する計画があると聞いています。既に農業社会は変質していますが、冒頭述べたように「社」がその土地の守り神であるとするなら、神社にみられるような宗教性を抜きにして、頭高山がこの地域の新たな「社」(その土地のシンボルという意味)であっても良いはずです。

 頭高山という里山に新しい息吹を与えることによって、自然豊かな、心豊かな地域再生への道が切り開かれていくのではないでしょうか。

注: 昨年、竜之口コミュニティー協議会の広報誌「たつのくち」に、依頼した原稿の半分を、紙面の関係で省略して載せました。後半を今年の「たつのくち」に書き直して頂きました。今年も、紙面の関係で省略させて頂きました。昨年の原稿の全文は電子町内会ホームページの”竜之口の歴史”に記載してあります。今年の原稿は、ホームページ前回の後半と重複したところはありますが、ここに、今年の全文を記載させて頂きます。(編集者)