身近にある信仰石造物(地神(じじん)さま) |
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正 富 博 行 |
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江戸期のことですが、地球規模の気候変動(小氷河期)により、今からおよそ二百数十年前の天明年間に東日本を中心として大飢饉を経験し、社会に大きなダメージが与えられました。特に、農作物は冷夏によって壊滅的な打撃を受けたのです。 |
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先に述べた天明年間は暗いイメージがつきまといますが、この時期は相当に教育や文化が進展しておりました。寺小屋も全国的に普及し、芸術や出版がさかんに行われていたのです。その流れの中で、京都の民間学者大江匡(ただ)弼(すけ)という人が「春秋社日ショウギ」という書物を出版しました。この書物は全国的に出回り、いわゆるベストセラーになったのです。書物には中国での土地の神祭りになぞらえて日本においても農を生業とする人々を中心として春秋の社(しゃ)日(にち)に土地の神を祭ると五穀豊饒のみならず天下泰平、家内繁盛、子孫長久、無病息災などが得られると述べられており、その祭り方は、石を五角に切ってそれぞれの面に、天照大神、倉稲魂命、大己貴命、少彦名命、埴安媛命の五神を彫り付けるというものです。陰陽道により大地は北にあてられるので、正面は北に向けなさいと指示しています。 |
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四御神地区の地神様 | 土田地区の地神様 | 前土田地区の地神様 |
五神名タイプ地神碑に限定していえば、岡山県では現吉備中央町(旧加茂川町)に建立された天明七年を刻む地神さまがこれまでの調査で最も古いものです。県中北部では「地神」と深くきざまれた石碑をよく見かけますが、これも地神さまです。(自然石タイプでは吉備中央町旧賀陽町の天明三年銘が最古です。) ところで、江戸中期以降、経済は米中心から貨幣を主流とする経済へと移っていきました。多くの人々が農業に従事していましたが、経済の仕組みが大きく変化していく過程にあり、農業の価値が揺らぎ始めてくるのです。そこに災害や飢饉などによって大きなダメージが加えられ、農の危機的状況を迎えます。 それはとりもなおさず、支配者にとって年貢(税)の極端な減収を意味することになります。岡山藩なども年貢の減免措置を講じていますが、そうするといよいよ藩財政は苦しくなってきます。このような状況の中で、阿波藩(徳島県)や佐倉藩(千葉県)では村々の庄屋に地神さまを祭るよう命令しています。そうすることによって、農業の生産性を向上(すなわち税収を上げる)させるとともに村落共同体の結束を強固なものにしようとしたのです。先に申し上げたように危機的状況を迎えた時に新たな信仰は人々に有効に作用することになりますが、それが農業の神であればなおさら効力を発揮すると考えられたことでしょう。 |
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岡山県においては、備前・備中・美作の内、特に備前地域において、大江の書物が出版されてからさほど遠くない時期に五神名の地神さまが知識層(地方の文化人)によって導入され、その後岡山市倉益の地神さまに記されているように、庄屋によって五神名を刻む地神さまが建立されています。この地神さまは天保四年の建立ですが、この天保期が五神名地神さまの第一期建立ピークとなります。ご存知のとおり天保期もまた極めて厳しい時代であり、県内の集落も危機的状況を迎えています。当時、現代で言えば中間管理職にあたる庄屋が、藩と農民の間で苦心し、仲間の集会や民間の宗教者からの情報あるいは大庄屋との連携などにより、村落の結束と農業生産の安定を求めて建立したものでしょう。ただ、庄屋のみでなく多様な人々がこれに関わった形跡があります。 |
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先の五神名の地神さまは、天保期から三十年ほど後の江戸末期から明治にかけて社会不安が極度に高まってくる中で、第二期の建立ピークを迎えます。 |
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ところで、岡山県の地神さま(とりわけ備前地域及び備中の一部)は他県の地神信仰と比較すると、土地の神ばかりでなく、水の神の機能も追加される傾向にあります。とりわけ法華経の強い影響下にあるところは、地神と水神を一体のものとして考えているようで、「地水神」「地水二神」などと刻んだ石造物を見ることが出来ます。 |
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これからは、祭りの日である春秋の「社(しゃ)日(にち)」(春秋の彼岸前後)という日に大地の恵みを思うと同時に、豊かな水と大地を守るためにこの石造物を活用する方策を考えてみてはどうでしょうか。 |