昭和20年6月29日は、忘れもしない岡山空襲の日である。当時私は学徒動員で砲弾を作る兵器廠へ行っていたが空襲時には家に居た。午前1時頃飛行機の爆音で目が醒めた。
 すぐ起きて裏口から東の岡山の空を見たが暗く何の変化もなかった。表口に回って見ると、20メートル先の田んぼの中で火が赤々と燃えており、すぐ空襲だと分かった。火は焼夷爆弾で炸裂した後の残り火だった。笹が瀬川の堤防の近くの田んぼの中にも、2〜3個落ちていて火があちこちに見えていた。市民を逃さないため、街の周囲から爆弾を落としていったものと思われる。
 やがて多数の爆撃機の爆音の下、空から花火のような無数の火が、そのまま地上まで消えないで落ちてきた。その度にぶきみな低い炸裂音と共に火の手が、岡山方面のあちこちに上がり始めた。やがて東だけでなく南も北も四方八方火の海となった。西の庭瀬方面の一部が暗いだけだった。田中野田から見て一番近い所で燃えていたのは平田地区の民家だった。田植前だったので田んぼには水が張られており、家の前には防空壕が掘られていたが、水が溜まって入れなかった。親戚の叔母が来ていたが、家の前の畑に蹲り、その上に布団を掛けその上から水をかけた。まるで生き地獄だった。空襲は2時間程続いた。
 空襲後、家を焼かれたおびただしい人々の群が続いた。田中野田へもやってきた。暑い夏のこと、何も持っていない人、焼けただれた布団を抱いている人など着の身着のままの人達だった。私の家でも5家族20人程の人を泊め食事を与えた。1〜2週間滞在し、縁者を頼って出て行った。
 道端には、行く先もなく、雨に打たれて多くの人が溢れていた。私は空襲の次の日の夕方に手引き車で家で作ったにぎり飯を運ぶことになった。しかし、道端で一夜を過ごした人が、にぎり飯を餓鬼のように貪り食べ、4〜5箱のもろぶたのにぎり飯は見る間に消えてしまった。瞬時の出来事で唖然とした。後で役場の人に叱られたのは言うまでもない。