戦後の半世紀、この地域でも衣食住の生活様式が大きく変わった。ここでは戦前・戦後の衣食住の変容について考えてみたい。
 明治・大正・昭和と時代の流れと共に着物の時代から洋服へと移行した時代と言える。明治初期は、洋服が珍しい時代であったが、昭和も戦後になると反対に着物が珍しい時代となった。小学生が洋服を着るようになったのは、この地域では、大正も終わりの頃からであった。昭和に入る頃になると、一般人でも外で働く人は、洋服に変わっていった。
 履物は、着物には草履に下駄であったが、洋服になるとゴム靴、革靴というは似合わないのだろう。何時の間にか着物と共に草履、下駄は消えていった。
 勿論、戦前は着物も洋服も自由に買える時代ではなかった。母親は毎日夕食の片付けが終わると、昼間の労働で疲れ切った体で、居眠りをしながら、破れた衣類を繕ってくれていた。今のように使い捨てになったのはごく最近のことである。今では「繕う」という言葉も消えてなくなった観がある。母親が稲わらで作ってくれた手作りの草履が懐かしく、親の温かさを今も感ずるのである。
 現在でも、夏祭りなどにはユカタ姿が多く見られるし、成人式には、若者が好んで多額の晴着の着物でお祝いをしている。このように成人式や結婚式などでは、日本古来の着物は何時までも日本人の心の故郷として、愛され親しまれていくことだろう。
 一口に言えば、昔は自給自足の生活だった。
 特に食物は、この地域は岡山米の産地で農家ばかりだった。しかし、よい米は貴重な収入源だったため売ってしまい、中米といって悪い安い米を常食にしていた。野菜はきゅうり、かぼちゃ、じゃがいも、大根等自家用として栽培していた。当時は忙しさに追われたり倹約の意味もあって、じゃがいもが出来たら朝、昼、晩と毎日、毎日じゃがいもばかり、かぼちゃが出来たらかぼちゃばかりの食生活だった。「芋を食べさせるぞ」と言ったら泣く子も止めるという話もあるが、よそ事ではなかった。
 たんぱく源は笹が瀬川や用水路でとったしじみや鮒等であった。鮒めしといって鮒を骨ごとミンチにしてさといもやごぼう人参などの野菜と一緒に炊いてこれをご飯にかけて食べるのである。体のしんまで温まる、今も忘れられない郷土料理の一つだった。海魚は時折り魚屋さんが売りに来ていた。当時は殆んどの家で鶏を飼っていたが何故か卵はご馳走だった。牛肉や刺身などは高嶺の花だったことは言うまでもない。
       鮒飯
材料:鮒のミンチ100g・ごぼう1/4本・人参1/2本・油揚げ1枚・絹豆腐1丁・
    ねぎ1/2本・サラダ油小さじ1・薄口醤油お好みで・酒お好みで
・なべにサラダ油を敷き、ふなを細かくなるまで炒めて、ささがきに切ったごぼう、ささがき風に切った人参を混ぜ、水を入れて軟らかく煮る。
・ごぼうと人参に火が通ったら、油揚げ、豆腐を入れ、薄口醤油で味を整え、酒で仕上げる。
・最後に5mm幅に切ったネギを入れ、ひと煮立ちしたら火を消す。
・ご飯を丼に盛り、その上から3をかけ、たくあんとともに頂く。
 自給自足は食物ばかりではない。野菜の料は、便所から汲み出した下肥であったし、炊事の燃料は稲わらであった。火力がなく、灰が溜り、時間ばかり長くかかっていた。
 おやつは家の周囲に植えていた。柿やいちじくである。待ち切れなくて青いうちから食べていた。お餅を薄く切って乾燥した「カキモチ」を焼いて食べるのが楽しみだった。
 おやつなど買うことはなかったので、同じ年頃の子供がお菓子を買って食べているのを、うらやましい目で見ていた遠い幼い日を思い出す。
 鉄屑を集めておくと、飴玉と交換してくれるおじさんが来ていた。当時飴玉5つが一銭であった。一銭が100個で一円であるから子供にとっては一銭でも価値があったのである。
 戦争が激しくなり、作った米は殆んどお国へ供出する。自分で作った米が食べれないで困っている時、笹が瀬川の廃川地でさつまいも作りが始まった。これはこの地域にとっては天からの恵みであった。
 山陽線で岡山平野に入る頃になると、大きな家屋が目につくようになると言われてきた。
 その理由を調べると、昔この地域に栽培されていたい草に大きな原因があるようである。
 い草は暑い夏、一週間程の晴天の日を見計らって、短期間に刈り上げる仕事である。
 これが品質のよいい草を作る条件である。そのためには、大勢の人手が必要となる。夏とは言え、重労働で疲れ切った体を休めるためには、多くの人夫が泊れる家屋がなければならない。
 又い草は湿気を呼び安い性質がある。乾燥後長屋に保管するのであるが、長く乾燥を保つためには、二階に積んで置くのがよいとされていた。したがって広い二階建の長屋を必要としたのである。この地区の母屋や長屋の規模が大きいと言われてきたゆえんである。い草の収入のお陰で大きな家を建てる余裕が出来たとも言える。しかし、今は当時の面影は残っていない。
 この地方には昔から「イロリ」はなかったようである。寒い冬でも、県北より暖かかったということもあったかも知れないが、第一の理由は燃料で、山村のようにイロリで燃やす雑木とかいう燃料が自由に得られず、稲わらか、笹が瀬川に自生する葦や籾穀しがなかったことによる。
 今はわら屋根の家は全く姿を消しているが江戸末期ごろ建てられたわら屋根の家が大正期の頃までちらほらこの地域にも残っていたようである。江戸末期の百姓家は床も張ってない土間に稲わらを敷いて生活していたようであるが、この地域ではい草を栽培していた関係で畳を敷いて生活していたとのことである。