※笹が瀬川改修前後の比較
 この笹が瀬川改修工事は、図に見られるように、川幅が広く、川筋が大きく湾曲していて、出水の際は常に堤防に圧力が加わり、危険におびやかされていた。この川筋を直線に掘り替え、元の川筋をその土砂で埋めれば、そこに広大な干拓地ができ、一挙両得になるという発想で、昭和7年より工事が始められた。先ず川の中に新堤防を作ることから始められた。この土砂は遠く3キロメートルも離れた花尻山からトロッコで運ばれたのである。
 又瀬戸内海から児島湾を通り、笹が瀬川をさかのぼって浚渫船が入ってきて、新しく川筋となる所を掘削し、その水と泥を木のパイプを通して、旧堤防と新堤防の間に流し込んだのである。こうして新旧堤防の間に新しい陸地が誕生した。この長いバイブから水がしたたり落ちていた光景が今も脳裏に焼きついている。
※改修工事で活動する”しゅんせつ船”(昭和8年頃撮影)
 こうしてできた廃川地もそのままで利用計画は無く、放置されていた。あしが繁り、小島は動物の住みかになっていた。草茫々の荒野原であった。その後戦争が激しくなって、食料増産が叫ばれるようになり、この荒地の開懇が始まったのである。周辺の今地区の人々の手で、さつまいも等が栽培されるようになった。汗水を流し開墾し、翌朝芋の苗を植えに行って見ると、すでに誰かが植えていたという笑えない話もある。食料不足の時代を反映している一例である。
 戦後は一転する。学制改革で都市町村に中学校が新設されてようになると、いち早く中学校が出来た。御南中学校である。当時はこの地区は岡山市でなく、中学校も、今、芳田、白石、大野の4か村立ということで通学区域も広く、白石地区の生徒は開校当時は、笹が瀬川を渡し舟で通学していた。その後、この廃川地にポリセクセンター、岡山西養護学校、県南健康づくりセンター、福祉の郷などの県の施設が次々に誕生し、今日を迎えるに至ったのである。
 笹が瀬川は、児島湾に締め切り堤防ができるまでは、私共の住むこの地域には海水が流れ込み、潮が満干する川だったので「しお川」と呼んでいた。近所の家では漁船を持ち、水門付近が漁港になっていた。笹が瀬川の河口は児島湾であり、その先は瀬戸内海へと続く。
 私共子供の頃は、プールなど無い時代であり、この川で近所の友達と泳いで遊んだ。又、この川は他ではあまり見かけない大きさのしじみが沢山取れていた。秋には川舟ではぜ釣に興じた。水は汚く白いパンツが黄になっていた。楽しい想い出だけでなく、一緒に泳いでいた友が溺れ死ぬ等悲しいこともあった。今でもこの川の堤にたつたびに、幼い日々が懐かしく偲ばれる。その昔の昔、笹が瀬川に流れていた桃から鬼退治をした桃太郎が生まれたとか。桃太郎伝説の川でもある。この川を大切にし、何時までも皆様から愛され、親しまれる川にしていきたいものである。