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御野郡とは、この当たりの地域である。昔この地域を指して、どうしてこのような厳しい言葉が生まれたのか、その原因を尋ねてみたい。
その原因の第一に、労働の厳しさがあげられる。私共が子供の頃を考えても分かるような気がする。その労働の厳しさの第一はい草の栽培であった。い草は寒い冬に田に水を張って植えるのである。岡山平野は備前のからっ風といって、冷たい風が吹き荒れる。田一面に張った氷を割りながらのい草植えである。又刈り取りは、真夏の土用の炎天下であり、多くの人夫を雇い一週間余で刈り上げるのである。主婦は、農閑には、休む間もなく畳表を織る。早朝から夜業まで寸暇を惜しんで仕事に励んだのである。
このようにい草は稲作の裏作として、栽培されており、家族ぐるみで厳しい仕事に取り組んでいたのである。まして女性はその上に炊事洗濯、畑仕事、育児などの仕事に追われていたのである。
しかし、この労働のお陰で、大きな収益を得ることができ、副業としての畳表の製織も現金収入をもたらし、経済的にはゆとりのある生活ができたと考えられる。 |
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この仕事は、真夏の太陽がじりじりと照りつける晴天をねらっての勝負である。人夫もい草3反程の刈り取りに10人以上必要とする。
この人達は日頃鍛えられた重労働の農作業に自信のある体力の持ち主である。
朝3時に起床し暗がりの中を、ある者はい刈にある者はい草運びに精出すのである。
暗がりにい草をかついで運ぶので、い草を乾燥するために張ってある縄を引っかけ倒れて目が醒めることも珍しくない。朝6時に朝食をする。食事は一日に10時、午後2時、夕食と午後4時の間食を含めて5回食べるのを見ても、仕事の厳しさを知ることが出来る。
頭の先から足の先まで泥にまみれての炎天下の仕事である。私共も若い時に経験では、冷や汗が出、腹が痛くなり3日と続かなかった。それだけに賃金も、昭和40年代い草を止める頃には一日一万円であった。中途で仕事ができなくなった人には、帰る汽車賃程度しか渡さなかった。この地域は、い草の一戸当りの作付面積は日本一と言われていた時代もあった。当時は1町歩近く作っていた家もあったようである。 |
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畳を織る道具のことを「オモテバタ」と呼んでいた。主として女性の農閑期の仕事であった。い草を一本一本織り込む手仕事であるから、一日にT〜2枚しか織れないので、寸暇を惜しんで仕事に精出した。
母親が子供にご飯を食べさせるのは当たり前の話であるが、反対に子供が母親の口にご飯を運んでいる姿を子供の頃よく見かけた。
子供が運んでくれるご飯を食べながら、手を休めることなく一生懸命仕事に励んでいるのである。それだけでなく、今度は母親が働いている後に回り、頭の髪を櫛といているのである。寸暇を惜しんで仕事をしている見本である。猫の手も借りたいというのは正にこのことであろう。農繁期は元より農閑期もこのように仕事に追われているので、子供も学校から帰ると、親の要求に従って手伝いに明け暮れていた。当時でも子供心に、何でそんなにまでして働かなければならないのだろうと不思議に思っていた位だから、現在では全く想像もつかない、理解に苦しむ話だろう。 |