区画整理前の田中野田を航空写真で見ると、周囲が川(用水路)で囲まれているのがよく分かる。
 かつてはこの用水路は、稲作やい草をつくる農家にとっては、なくてはならない命の用水路であった。この用水路も今はその殆どが消え去り、そこには道ができ家が建った。現在残された川にはヘドロが溜り生き物はいない。何時しか汚いだけの死んだ川となり、何の魅力も感じさせない遠い存在となった。川を愛し、川に親しみ、川で育った幼い日々が懐かしく偲ばれる昨今である。
 学校から帰ると、鞄を投げ出し、鮒を釣り腰まで水につかって網で魚を追いまわした。当時は鮒、鯉、鯰、鰻など沢山取れた。川で遊び楽しかった思い出が今も脳裏に焼きついている。当時、川魚は、貴重な蛋白源であった。
 その昔、野田川界隈は、農作物の積んだ川舟の行き交うのどかな農村であった。この川舟は、かつては各農家に一艘は持っており、家の近くに横付けできる場があった。道も狭く車もない当時では、用水路は農作物などを運ぶ大切な道だったのである。
 又若草の萌えるうららかな春の日、舟遊山といって、川舟で兄弟や近所の友達と一緒に舟にゆられながら、母親の手作りのご馳走をおいしく戴いた幼い日の楽しかった想い出は、何時になっても忘れることはない。都市化の波で一艘の川舟も姿を消した今、当時の面影を知るよしもない。
 この地域には、その昔岡山弁で「カウェーチ」と呼ばれる物洗い場があった。稲作地帯に欠がせない用水路の水は、又物洗い場でいろいろな面に利用されていたのである。物洗い場は一戸に一箇所だが、共同のものもあったようである。カウェーチというのは、川津がなまったものと言われている。川舟の積み下し場とこの川津が、各戸にあったことを考えると、川のある場所に家を建てていたようである。この川津で用水路の水を使って、「洗濯」や「もの洗い」などをしたのである。上水道のない時代には、川の水で顔を洗い、お米を洗い、お風呂の水を汲み、飲み水にも使用したという。
 この地方に上水道が敷設されたのは、昭和6年頃であるから70年以上前である。その後、川津の姿は何時しか消えていった。住時を知る者にとっては淋しい限りである。