元来、和霊神社は愛媛県の宇和島市和霊町にあるもので、その由緒は山家清兵衛公頼(藩主伊達秀宗の家老)は、廉潔でしかも出世が早かった為に同僚から嫉妬されて、元和2年(1616年)殺された。 後世の人々は、その霊を慰めるために山頼明神としてまつった。 息災延命、子孫繁栄に不思議に霊験があるというので、 四国では金刀比羅宮と並んで、諸人の信仰が厚かった。 そこで、新町(中一丁目)及び北之町(中三丁目)の篤信家がそれぞれの町内の神としてまつったものである。 |
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新町地区 | ||
普門院の本尊は虚空蔵菩薩であるが、その鎮守として淡島大明神がまつられている。 現在は円満院も一緒になっている。 淡島大明神は寛延2巳巳年(1749年)当院中興申孝和尚霊夢により遠く紀州加太より勧請した。 女一代護神淡島大明神の功徳により霊験あらたか、殊に婦女子の諸願を満たして諸病も治す。 7月12日 夏祭が行われる。 |
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今町地区 | ||
今町(南二丁目)元は円満院の鎮守であったが、明治45年(1912年)今町へ譲る。祭祀は普門院の住職が担当する。 祭神は本地将軍地蔵菩薩及び三宝荒神天満大自在天神である。 毎年、正月23日に子供の会陽が行われていた。 昭和30年(1955年)ごろまで続いていたが中止になった。 |
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中野地区 | ||
どんど祭(正月14日)はお正月の行事でおかざりや古い神札、書初めやお餅などを焼きお払いをして無病息災、家内安全などを祈願する。 お当夜祭は旧暦の大晦日より旧正月28日にかけて行う。当夜は農村で行われる「お日待」の祭祀のことで、もとは祭祀の中心となる家を当夜(トウヤ)または、当屋と云った。中野地区では祷屋とも書き行事を「オマット」とも呼んだ。 祇園宮の春祭は午前中お旅所巡りで午後から子供神輿です。毎年5月12日ですが現在は最も近い日曜日に行う。お旅所巡りは神官を迎えて神儀を行った後、お厨子に入れたご神体を保存会の人が持って神官と共にお旅所を巡幸にする。 |
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本堂は御本尊である千手観音を安置している。 今の伽藍は文久2年(1862年)柱立式を行い翌年完成したもので、会陽の夜には数千人の裸群が陰陽二本の宝木の争奪戦が行われる。 二王門は室町時代の天文年間(1532~1555年)に慶秀上人の時に建立。しかし、最近の専門家の調査では江戸末期の元文年間(1736~1741年)との意見もある。門には両金剛(仁王様)がすえられている。この仁王様に願掛けといって大きな藁草履を奉納するのは足を達者にしてもらうため。 三重塔は延宝6年(1678年)典翁上人の時竣工した。中に大日如来が祀ってある。 西大寺観音院のホームページ |
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現在の橋は3代目。 2代目の時、昭和31年4月(1956年)巡業に来ていた相撲とりが渡った後、落ちたと言われる。 下の流れは新堀川(秋芳川分流)。現在の橋は昭和53年2月竣工。 |
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創始は室町時代の永享2年(1430年)とあるが、幕末のあるころの庵主は求女と呼ぶ美人で、法名を妙指といい、明治11年(1878年)に亡くなった。 猫に由縁ある数奇な生涯を送った人である。 数奇の運命にほんろうされて、「行」の途中に度々「月」と呼ぶ雄の三毛猫に生命を助けられた。 最後に求女の父と知り合いだった義侠心に富む米問屋藤屋の旦那に救われ、その屋敷内に庵を建ててもらい、ここに求女は尼となって、愛猫と共にその生涯を送ったという。 |
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北之町地区 | ||
このあたりは旧北之町(中3丁目)といい江戸時代には吉井川の本堤で西大寺の港として栄え、問屋の倉が吉井川の河岸に立てならび通称「浜倉」と言った。 この「えのき」は高瀬舟の目標となり舟をつなぐのに利用された。 |
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北之町地区 | ||
上水道が開通した当時のもの。右側は共同柱で、近隣の数件で利用し、ねじで栓を開閉した。 大正12年(1923年)4月町役場で上水道通水式を挙行した日には、商店街は数日間記念の大売出しをし、小学生は上水道の歌を歌って旗行列をした。 |
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中福町地区 | ||
中福町の商店の並び。 1階の店舗のところは、改造されているが、2階は、しっくいや格子窓に昔の姿をしのぶことができる。 |
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この道標はもと道を隔てた東の町角にあり、地蔵堂も同じ場所にあったが、火災があり、現在のところに地蔵堂ともども移された。 元の位置にあったときは、左へ行けば児島の由伽大権現・讃岐の金毘羅大権現への参詣船の発着する金岡の港へ行く道、右へ行けば観音院の門前町であるからそれでよかった。 |
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「さまざまの事おもひ出す桜かな」 貞享5年(1688年)春に芭蕉翁が伊賀上野市の花見に招かれた時、作ったもの。 後に、当地の俳人が翁を慕って建てたものであろう。現在、普門院の境内にある。 |
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