沖新田にみる津田永忠に関連した遺跡
  政田民族資料館の見学資料から転記
1 津田永忠陶像 沖田神社境内
 昭和43年(1968)に作られた、備前焼の座像。原型の作者は岡本錦朋。各地に作られている永忠象の基本形。
2 津田永忠銅像 岡南大橋東詰
 平成4年(1992)、旭川に架かる岡南大橋が開通した際、東岸の沖新田を代表する人物として、立像が作られた。
3 倉田新田(倉新田)
 延宝7年(1679)成立。296町余り。
永忠は当初、現在の沖新田を含めた巨大な干拓を計画したが、古地や用水などの関係で二つに分けられたとみられる。最初の藩営新田。
倉安川
 倉田新田への用水を目的にした運河。沖新田開墾後は、倉田新田を通過した用水を沖新田の西手(百間川の西岸)に導水し、この地域の主たる用水として利用された。
高浜新田旧堤防 砂川河口部北岸
 開墾年は不明。元禄1年(1688)、堤防の改修について、社倉米を利用して改修するよう、津田重二郎(永忠)に申し渡した、という記録がある。
大水尾旧堤防 百間川河口部東岸
 百間川(古くは「五番川」)の河口部「大水尾」東部に残る、旧堤防。往年の姿を垣間見ることの出来る場所。「世界遺産」の候補となっている。
沖田神社、古宮神社、百間川西岸
 元禄7年(1694)に藩主・池田網政の命で、新田の産土神として現在の古宮の地に勘請された。その祭礼の際には津田永忠も参列している。しかしここは度重なる大風・水害にあったことから、宝永6年(1709)に現在地に遷宮された。
開墾大官人之碑 辰巳墓地西側
 文政9年(1826)に、沖新田外七番の馬場富次郎が建てたもの。石には正面に「開墾大官人之碑」、側面には戒名と、津田永忠と同じ没年月日、年齢が彫られている。馬場が永忠の恩を感じて、子孫にもその事跡を伝えようと建立したもので、墓石というよりは記念碑といえる。
9 佐源太塚 潮止堤防上
 津田永忠(佐源太)を顕彰するために作られた場所。明治32年12月から「開墾大官人之碑」をこの地に移し、新たに巨碑を建設して永忠の偉業を後世に伝えようと、地元の馬場官三郎が主唱者となって進められた。入口には、干拓時から明治39年まで機能していた八番水門の柱石が、注連柱として転用されている。明治40年1月完成。
10 沖新田慕徳懐恩碑 佐源太塚内
 明治41年(1908)、馬場官三郎の努力で建てられた巨碑