石田寛著 『維新期・岡山藩の開明志士 津田弘道の生涯』より転載します。
中岡慎太郎・坂本龍馬と津田弘道との会談
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第4章 探索周旋
六 「中岡慎太郎・坂本龍馬と津田弘道との会談」
もっとも興味を引くものは、中岡慎太郎・坂本龍馬の二度にわたる会見である。津田は水戸藩天狗党の情報蒐集後引続き京都へいた。
津田個人の記録、岡山藩の記録に中岡・坂本との会見に関することは見当たらないが、中岡慎太郎の『海西雑記』にその会見の記事がある。
第一回目は京都、第二回は岡山城下の近くの藤井駅と二度会ったことが知られる。経緯をもっと詳しく見よう。
1 中岡慎太郎・坂本龍馬と津田弘道らの面談
中岡慎太郎は、元治二年(慶応元年)二月五日赤間出発、七日馬関に至り、十三日に上京、藩邸に投じ、上国の形勢を視察し、廿三日再び
西下する。この京都滞在十日間の一日(慶応元年二月十七日)水戸の河邊春次郎、備前の津田彦左衛門、河邊源太夫に会っている。
中岡慎太郎の記述では次のごとくである。『海西雑記』元治二(一八六五)年二月十七日
晴、吉井より猪肉一足を送る。直に焼て下物に当つ。午後松田江行く。会候決心東下に付、段々議論ありし由、・・・・(中略)
○尾州老公狂を被レ病候云々。○姫路廿余人斬る。楽候大老水戸 河邊春次郎 備前 津田彦左衛門、河邊源太夫
六百年来の廃典を被レ興、近衛公府公大和に御越、今朝御発駕。
猪肉が送られたのを機に、中岡慎太郎・坂本龍馬が催した席に招かれたのが、水戸の河邊春次郎、備前の津田彦左衛門(弘道)、
河邊源太夫の三人である。かつて弘道は河邊春次郎と面談していたことからみて、河邊春次郎の肝煎りで備前の津田らが招かれたとみられる。
初会は中岡らが津田達を招宴したのであった。第二回目は坂本らの備前訪問であり、城下の東北方藤井宿で津田らが応対する。
元治二(1865)年(慶応元年)二月廿六日中岡は汽船に搭乗して兵庫を出帆、三月三日博多着、直ちに太宰府に至ってその見聞を三條實美に報告、
薩長和解提携のために奔走する。閏五月二十九日、坂本龍馬を伴って三度目の上京の途に就く。
『海西雑記』によれば、「閏五月二十九日夜発舟、六月朔日(記事なし)。同慶応元年六月十日(十四日の誤り)備前西大寺に宿す。
同十五日、藤井駅に宿す。周旋客津田彦左衛門、伊木太夫臣小松源治面会」とあって、六月十五日津田らとの面談を以て日記を終っている。
この面談については今のところ史料が見付からない。
2 会見についての今までの意味づけ
尾崎卓爾(大正一五年)は、「中岡と坂本は、六月十二日太宰府を出發したが、折柄天候が険悪であったため、十四日両人は
備前西大寺駅に上陸し、十五日藤井駅へ行くと、例によって中岡は、芸州藩や因備方面の模様を探察し、是非とも芸州を説いて、
長州の味方をさせねばならぬということで一泊した。そして中岡は人を使して、旅宿に津田彦左衛門、小松源治の来訪を求め、
征長問題に関する件を認めたうえ、直ちに西郷を追うて、京都に入ったのは六月二十四日であった」と、風待ちのため立寄ったついでに、
一般情報と芸州説得依頼というように、津田らへの面談にあまり大きな意義を認めようとしていない。(尾崎卓爾『中岡慎太郎』青山書院、1940)
ところが小野金次郎(昭和一八年)は、「せっかくの薩長連合もこのままに終るかにみえたが、慎太郎と龍馬の血みどろな活躍が続く
・・・十五日には藤井へ行く。そこで津田彦左衛門、伊木大夫臣小松源治らに会って芸州藩を味方にひき入れるために説いた」
として、中岡・坂本の津田らへの面談、津田への期待を評価している。(小野金次郎『中岡慎太郎』十二月ゝ書店、1943)
この二人は京都における坂本・中岡の津田ら招宴のこととは無関係に述べている。そして芸州藩説得との関連において述べている。
筆者は岡山藩説得のための面談であるとの仮説をもっており、近藤定常・伊木三猿斎の龍馬匿の件との関連的考察をしたい。
3 家老伊木関連、とくに近藤定常史料の再検討
伊木三猿斎の懐刀といわれた近藤定常の記録も検討することが、この際決め手になろう。
筆者は、京都で招宴の席を設けられていたことから考えて、中岡・坂本の津田との面談の意義を積極的に評価したい。
その手掛りは、①既に京都で会っているという係わりをもっている。手掛り②は、次に『近藤定常履歴』(岡山大学池田家文庫)を中心に述べるごとく、
岡山藩が長州再征の成り行き運命を左右する立場におかれ他藩士、浪士の来往はげしく、津田は応接するとともに、探索・周旋に広島など
他藩へ度々出向くという状況にあったことである。探索活動の一端が『風聞書』(岡山大学池田家文庫)として残っている。(中略)
坂本龍馬・中岡慎太郎両人、ことに坂本龍馬は、維新史の「悲劇の主人公」ナンバーワンである。ありあまる才能をもち縦横に奔走しながら、
維新の偉業成就直前に三三才の若さで白仞に倒れたがゆえに、万人に一層哀惜・敬慕されている。
坂本の縦横の機略、精力的活躍は、各方面から発掘、研究されているが、岡山藩とのかかわりについては未だほとんど知られていないようである。
史料の示す限り、前記『海西雑記』にみえるところの津田彦左衛門や、河邊源太夫訪問が初見であり、岡山との最初の係り合いである。
『近藤定常履歴』(池田家文庫)に、第二次征長前後、岡山に諸国藩浪士が頻繁に連絡をとっていることが書かれているが。そのなかの一人に
坂本龍馬の名前がある。
慶応元年正月、長州正義派の台頭とともに、その密使やこれに共鳴する他藩浪士が、広島や岡山に工作に訪れる。
後述するごとく、長州の密使などを津田は数回応接している。
幕府長州再征が発せられる(慶応元年五月一六日)と、反対が多く、備前、因州、芸州、阿波、筑前などの雄藩はその最たるものであった。
一方幕府は「備前は最もその要路に居ると以て数々の厳令を下し、出兵を促し岡山城下を以て大将軍の陣営に充て」ようとしたので物情騒然となる。
この時、あるいは伊木長門に建白し、あるいは書を近藤定常に送り、あるいは来藩した者に次の面々がある。
松田小三郎、河田佐久間、河田精之丞、土肥謙蔵、笹木政吉、安達清風、鯉沼伊織水戸ノ浪士、始要人後香川桂三ト称ス、又敬三トモ云、
武藤小四郎、西野昇三、村上順蔵、新館精一郎、坂本龍馬、大木土佐肥後藩家老ノ嫡男、長岡良之助護美、平山勇五郎、清水健次郎例臣ト云筑後藩士、
柴原順治、竹鼻陶次豫州小松藩士、桜間貞之介淡州ノ士、二見一鴎斉、里見次郎、西要次郎周ト云フ、石川清之助、島田方軒恭雄、高木義之介、
八木良蔵土佐ノ士、後北垣周造又国道、米田虎之助容保、城井晋太郎
これらの面々をみるに、当然のことながら『一家春秋』にでてくる人々や各地で岡山藩周旋局と密接に関連しているので興味深い。
さて再び近藤定常の記述をみよう。長州再征軍岡山通過に当って、「藩論を固くし以て幕命に相反対す。依て幕吏大に嫌疑を抱き大将軍が岡山
を過ぎて馬を西に征することを躊躇す。是を以て諸藩の兵左右を顧み敢て進まず、長州再征を遂に果さず。
毛利家これを喜び、藩公及び伊木長門の忠志厚きを知り、内使往来し奇兵隊士のうち数輩密に岡山に来り、長門に倚頼し假りに伊木家の從と為り
或は各藩の有志輩来る者多し。実に枚挙するに遑あらずと雖も其大畧を掲げれば即ち河田佐久馬、仝精之丞、坂本龍馬、石川清之介、八木良蔵、
笹木政吉、鯉沼伊織、二見一鴎斉、里見次郎等数士なり。幕吏これに注目す」とある。定常また顧慮する所ありて・・・隠匿せしむ。
皆潜伏して時の来るを俟つ。戊辰前京都に出て一死以て国に報ぜんとす。
戊辰の事起るや皇軍に先がけ機に投して奥羽に赴き、数々戦功を立て擢用せられ官職を奉ずる者甚だ多し」と記している。
慶応三年六月の記述に「六月茲に隠匿する有志土佐藩士坂本龍馬、勢州の浪士二見一鴎斉は薩長肥に、紀州の士里見次郎は京都に赴かんと乞う。
定常また廣田柯之介の前轍に鑑み抑留す。龍馬曰く顧慮する勿れ路を海に攬て窃に行く。足下何を心頭に掛る事これあらん。
然れども僕甚恥ず嚢中相空し、願くは渡行を資せんことを乞うと則ち金六拾兩を三士に投ず。而して往く。
遂に次郎は大和に於て暗殺され、龍馬は長藩士中岡慎太郎と共に京都に寓す。十一月十六日探吏両士を問うて来る者あり。
龍馬の僕藤吉出て其氏名を問うと雖も黙して答えず。僕甚だ訝り階上に登り両士に告げんとす。
曲者亦窃に跡を逐て階に登り一剱先ず僕を屠り、進んで両士を殪して去る。彼は則ち幕府の新撰組長近藤勇・土方歳三の二名なり」(『近藤定吉履歴』)
右の記述には坂本龍馬・二見一鴎斉・里次郎らを一時かくまい、出立に際して大金六拾両を持たせたこと、次郎は大和で暗殺され、
そして龍馬と慎太郎は新撰組の刃に倒されたと強調している。涙なしでは読めない。(後略)