第3章 戦国時代へ向かう中島地区とその周辺



 鎌倉時代、幕府から地頭として派遣された松田氏は、矢坂山の頂上に富山城を築き、金川にも城を構えて、西備前一帯を支配下に置きました。その後、足利幕府の成立に功労のあった姫路の赤松氏が播磨・備前の守護となり、三石の浦上氏と共に松田氏を備前の守護代としたことで、当地区一帯に暗雲が漂うこととなります。

 すなわち、松田、浦上両氏はことごとく対立することとなり、また備前が一時、山陰の山名氏の領土となったこと等もあって、応仁の乱以後の備前平野は大いに乱れることになったのです。
 
 墾田永代私有制度が容認されて以来、土地をめぐる争いは絶えることなく連綿と続くこととなり、その土地土地の支配者(小豪族)も、その時々に周辺の強大な勢力のぶつかり合いに翻弄されながら、最も安全と思われる勢力の庇護下にはいって、我が身の安息を守りつつ、戦国時代へと突入してゆくことになるのであります。

 当然、支配者は館を固め砦を築き武装化して、周辺からの侵略に備えるようになります。当地区の近隣だけでも、竜の口山城を始め、舟山・西川原・清水・さい・石山等十指に余る城と名の付く構えがありました。その中のひとつに当地区に台頭したと思われる中島氏一族が守る中島城もあった訳であります。
やがて、中央備前に台頭して来た沼亀山の宇喜多氏と、備中成羽から備前一帯を狙う三村氏が総力を挙げて激突することとなり、この地域一帯を激烈な戦乱の渦の中へと巻き込むことになるのであります。