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江戸時代、大庄屋が管轄する村々の実情を把握し、年貢米のチェックの資料にしたり、役人からの問い合わせに答えたりする為に書き留めた冊子を、『村鑑』(むらかがみ)といいます。
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古文書の勉強をしているうち、たまたま当中嶋村の『村鑑』に巡り会えましたので、それに基づき当時の中島の様子をご紹介させていただきます。
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資料は、天保年間のものと思われますので、今から170年前明治維新を迎える30年余り前のこととご理解ください。
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:耕作面積について
田地=14町歩 畑地=9町1反7畝 合計=13町1反7畝(約13ヘクタール)
他に 開墾地=12町5反7畝(約12.5ヘクタール)
<注> この田畑の面積はお隣りの八幡の約2倍となります。
また、開墾地が12町歩もあるのは、他に例がなく、多分祖先が百間川河川敷の開墾に精を出したからだと思われます。
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:予定総収穫高
442石3斗(内年貢は約5割強でした。)
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:戸数、人口について
戸数=47戸
人口=男104人、女118人 合計222人
<注> 昭和16年の中島の戸数は42戸、人口は200人という資料が別にあり、これと比較すると戦前までは、江戸時代とほとんど変わらない状態が続いていたことになります。
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:次に興味深い記述をいくつかご紹介します。
関戸=1ヶ所
<注> 関戸とは、本来関所を意味しますが、もしかしたら前回ご紹介した『釣の渡し』にからんで、関所らしきものが設けられていたのかも知れません。
牛の数=18頭
神社の数=1ヶ所(多分朝間様のことか?)
首塚=1ヶ所
薮=4反8畝
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そして、なんと巨大な椋の大木が1本、あたかも中島の目印のようにそびえ立っていたそうであります。その大きさは、幹の廻りが 2丈7尺余りとありますから、実に8m余りの巨木であったことになります。もしかしたら、中島城主大炊介が椋の木のほこらに隠れた刺客によって殺害されたと伝えられていますが、或いはその椋の木こそこの巨木のことだったのではないでしょうか。きっとその巨木の下では、子供達が鬼ごっこをして遊び、また人々が憩い合う場所として村の中心的場所となっていたことでありましょう。
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いかがでしたか?江戸時代の中島の様子が、少しは皆様の瞼に浮かんで参りましたでしょうか?
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以上、第1章から第10章まで中島の歴史シリーズをご愛読下さいまして、ありがとうございました。これをもちまして、このシリーズを終えさせて頂きたいと存じます。
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最後に、各方面から激励のお言葉を頂戴し、また、掲載にあたっては、菅様の一方ならぬご協力を頂きましたことに、厚くお礼を申し上げ筆を置かせていただきます。 |
横山 洋一 |
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天保年間と推定される村鑑のうち『中嶋村』の項の一部 |
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