さて、大和政権に、制圧されるに至った吉備の国は、その後どのような道をたどるのでしょうか。6世紀初頭頃までに、ほぼ全国制覇を成し遂げた大和政権は、地方支配の手法として、各地の豪族に国造(クニノミヤツコ)とか、県主(アガタヌシ)という官位を与えて、豪族の力を利用した間接手法で統治するようになります。
 一方、屯倉(ミヤケ)という直轄地を設けて、中央から派遣した役人や軍勢を駐留させ、その地域の重要産物や、国造など諸豪族の監視に当たらせたりするようになります。ここ吉備の国は元々、米・鉄・塩など重要な産物に恵まれていただけに、大和政権の力を入れようは自ずから違っていました。
 
 まず、出先機関としては最も権限の強い大宰府(九州の大宰府に次ぐ)を設置、更にいくつかの屯倉を設置して諸豪族に対し圧力をかけていくようになります。その一つが、白猪(シライ)という名称の屯倉で、勝山方面に置かれていたらしく、これによって鉄の生産を奪い取ってしまいます。今一つは、児島に設置された屯倉で、旭川河口の対岸あたりにあったらしく、ここでは塩と海上交易権を吉備の国からもぎ取ってしまいます。
 また、各豪族からは、彼等の息女を舎人(トネリ)とか采女(ウネメ)という名目の人質を取って、男子は宮廷周辺の警護や雑用、女子は女官として宮廷内の世話をさせるなどして、地方豪族の中央への従属化を図っていくようになります。皆さんも、黒媛(クロヒメ)物語や兄媛(エヒメ)物語を耳にされた事があると思います。これらの物語は、吉備の国出身の女性が、大王(オオキミ)に妃になったという真に喜ばし物語ではありますが、その実体は彼女達こそが、采女の原形であって、豪族達から大和政権へ差し出された、人質そのものだったのであります。
 
 やがて、我が国に朝鮮の百済(クダラ)から、仏教が伝来します。時は6世紀中頃、第28代欽明天皇の時代。その頃になりますと、大和政権は中国にならって自らを大和朝廷と呼ぶようになっていました。因に、「天皇」という尊称が使われるようになるのは、第40代天武天皇の時代からと伝えられていて、それまでの天皇は「大王」(オオキミ)と呼ばれていたようです。
 朝廷内部では、この仏教を導入するかどうかで大いに紛糾しました。導入を画策する渡来系の蘇我(ソガ)氏と、日本古来の伝統を守ろうとする物部(モノノベ)氏の間で激しい論争になりましたが、結局大王の裁断で導入へと動きだします。しかし、物部氏はそれに承服せず、ついに蘇我・物部戦争へと発展、導入に積極的であったあの聖徳太子も蘇我氏に加担して、戦ったと伝えられています。多分、この吉備の国も蘇我氏のゆかりが深かっただけに、多くの豪族が蘇我氏側に味方したのではないでしょうか。
 その結果、物部氏は滅亡し、蘇我氏が朝廷内の権力を独占、あの有名な明日香板蓋(アスカイタブキ)の宮で蘇我入鹿(ソガノイルカ)誅殺事件を経て、大化改新へのつながっていくのであります。余談ながら、蘇我氏が如何に専横であったかというと、蘇我氏の血を引き、蘇我氏と共に歩んで来たかに見えたあの聖徳太子でさえ、大王の位にはつかせなかったし、そればかりか聖徳太子の一族すべてを、斑鳩 (イカルガ)の里において全滅させてしまった程でありました。
 さて、こうして仏教は急速に全国に広まっていきます。ここ吉備の国は、渡来系民族が多かったせいか、いち早く仏教色に染められていったようです。それを物語る証しが、数多くの寺院の建立です。
 日本で最初に建立された寺院は、593年完成の飛鳥寺(アスカデラ)と伝えられていて、それからさほど時を経ずして、ここ吉備の国の豪族達も、競うようにして一族の氏寺として寺院を建立するようになります。ご存じの賞田廃寺・幡多廃寺を始め、古都廃寺・吉井廃寺等50ヶ寺に余る寺院が、この旭東平野を始めとして、吉備の国各地に壮麗な甍を競い合うようになるのであります。
 今なお、見る者を圧倒するあの巨大古墳の築造が、なぜ急速に衰退していったのでしょうか。それは、仏教の伝来があったからに他なりません。諸豪族の権威の象徴は、壮大な古墳から瞬く間に、麗厳な寺院へと移行し、約300年続いた古墳時代と言われた時代は、あっけなく終焉を迎えるのであります。日本に仏教が伝来してから、わずか半世紀ばかりの間のことでした。
 
 振り返ってみますと、繁栄を極めた我が吉備の国は、吉備津彦の命による温羅(ウラ)退治と称する吉備の国の抵抗勢力制圧に始まった大和政権の一連の執拗な従属化政策によって、約150年の時の経過と共に、ついには身も心も同政権の下に屈服させられた訳であります。
そして、我が吉備の国は、また新たな道を歩み始めることになるのです。
                               (第3章 後編へ続く)
幡多廃寺 賞田廃寺
幡多廃寺 賞田廃寺
 

《注》 この章の執筆にあたっては、以下の文献を参考にさせていただきました。

★ 東京経済 発行 高見茂氏著 ――― 吉備王国残照

★ 株式会社山川出版社 発行 ―――― 岡山県の歴史