 |
 |
 |
| |
大化改新によって、豪族の手から政治の実権を取り戻した大和政権は、次々に法律を作って権力を中央に集中しようとします。その法律を律令(リツリョウ)と言い、律(リツ)とは今で言う刑法、令(リョウ)とは各種行政法にあたります。 |
|
主な律令としては、近江令・大宝律令等があり、これ等によって法律による国家運営、すなわち律令制国家が、動き出してゆく訳です。 |
|
当時の律令制度の基本概念は「公地公民制」で、現代の共産主義制度を彷彿とさせるものでした。要するに、土地と国民をすべて国家の管理下に置くという、当時としては画期的な制度でした。その中核法が「班田収授の法」で、国民各々平等に一定の土地を貸与し、死亡すると国家に返納するという仕組みでした。
|
|
言葉にすると簡単ですが、実態は極めて繁雑な法律だったようです。 なにしろ、その為には田地を整備し直して、一定の面積にすることが必要となります。これを条理制と言い、この旭東平野のあちこちにも、今もその名残りを見つけることができますし、必然的に行政区分の細分化にも迫られたことでしょう。 |
|
|
|
そのような背景をかかえて、ここ吉備の国はどのように姿を変えて行ったのでしょうか。
|
|
まず、吉備という大きなくくりが、備前・備中・備後の三つに分割され、更に備前から美作が分離されて、四つの国が新たに誕生しました。依頼1300年、今もってこの時の区割りが脈々と息づいているというのは、何とも感慨深くはありませんか。 |
|
当然、この律令制度を運営する為に、大量の役人を国毎に配備する訳ですが、その役所が国庁であり、国庁の置かれた地域が国府と呼ばれるようになりました。
|
|
ご存じの通り、ここ備前の国では私達のお膝下、国府市場周辺がそれであり、備中では総社市東部、美作では津山城の北一帯と推定されています。国庁の長官は守(カミ)と言い、江戸時代盛んに使われた「豊後の守」とか「但馬の守」という尊称の原点は、この大宝律令にあった訳です。 |
|
長官の重要な役目の一つは、神仏の式祭典を執り行うことでした。当時朝廷は、国民の人心統制を仏教に頼ろうとしていた為、全国に東大寺を総本山とする国分寺を建立しますが、それらはすべて、国庁の長官が参詣しやすいように、国府の近辺に建立されました。ここ備前の国ではご存じのように旧山陽町、両宮山古墳の西隣りにその痕跡があります。 |
|
また、神社は当時既に数多く点在していたようで、それらを一つ一つお参りすることは困難なため、近くに総社宮というお宮を建て、そこにお参りすることで用が足りるようにしました。備前の総社宮は国庁近くの祇園に今もありますし、各地に総社という地名があるのは、その名残りと言えます。 |
|
前章で取り上げた「吉備の太宰」という吉備の国時間の役所も、どうやら国府市場近くにあったらしく、私達は古代吉備及び古代備前の国の中枢機能があった、そのまっただ中に今住んでいると思うし、胸が踊る思いがするではありませか。 |
|
さて、このようにして古代律令国家は、動き出す訳ですが、やはり仕組みに無理があったのでしょうか。律令制の中核法である「班田収授の法」は半世紀も持たず、もろくも崩れ去り、「墾田永代私有の法」という妥協法を、新たに作らざるを得なくなってしまいました。 |
|
これは、自分で開墾した田畑は、開墾した者に永代私有を許すというもので、これによって力のある豪族は、再び私有地を持つようになり、その結果、且つての弥生時代のように、またまた土地をめぐる争いが、各地で勃発するようになってきます。 |
|
そこで、私有地を得た地方豪族達は、それを守る為に中央の力のある大豪族や、治外法権を持つ寺院などにこれを寄進する動きが出てきます。これが、すなわち荘園で平安の貴族社会を生み出す源となってゆく訳です。 |
|
ところで、最後に律令制度の下で活躍した備前の国出身の「和気清麻呂」について書き加えておかねばならないでしょう。 |
|
数ある彼の功績の中で、何といっても特筆すべきは、万世一系の天皇制を身を挺して守ったという功績でしょう。もし、彼が権力と陰謀に屈していたら、今のような権威ある天皇制は存在しなかったでしょうし、もしそうなっていれば今日の平和日本は、あり得なかったのではないでしょうか。 |
|
それは、どのような出来事であったか。皆さんご存じの通りの、かの有名な道鏡事件です。第45代聖武天皇の長女阿部内親王が第46代孝謙(コウケン)天皇となり、一旦淳仁(ジュンニン)天皇に位を譲るが、重祚(チョウソ=一旦退いた天皇が、再び天皇の位につくこと)して第48代称徳(ショウトク)天皇となります。
|
|
この女性天皇に取り入ったのが怪僧「弓削道鏡」(ユゲドウキョウ)で、天皇の寵愛を良い事に次の天皇の地位を狙った訳ですが、流石に称徳天皇も二つ返事とは行かず、念の為に天皇家祖先に縁の深い豊後宇佐八幡宮の託宣を聞く事によって譲位を正統なものにしようと図り、日頃から目をかけている和気清麻呂をその使者に抜擢しました。 |
|
ところが和気清麻呂は、天皇や道鏡の意に反して、あえて「ノー」と報告しました。烈火の如く怒った天皇は、清麻呂を流罪にしてしまったのです。 |
|
落胆した天皇はまもなく崩御され、道鏡は左遷されて、やがて第50代桓武(カンム)天皇の誕生へとつながり、清麻呂は許されて同天皇の下で更に重用され、平安京の造営に手腕を発揮するのでした。和気の小豪族出身の彼が権力の中枢で重用されたという事は、まさに律令制度の光の部分であったと言えるでしょう。
|
|
以 上 |
|
 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|