吉備の国の全盛期、それは岡山市新庄の造山古墳が築造された頃と見てほぼ間違いないでしょう。時は、西暦430年〜50年代の頃と推測されます。この古墳の全長は実に360メートル、全国第4位の規模で、しかも天皇陵以外では全国最大規模を誇るものであります。この墳墓を造った者こそ、正に王の中の王であり、当時の吉備政権の強大さと、圧倒的な国力を裏付ける証しと言って差し支えないでしょう。吉備の国が、なぜそのようにまで力を貯えていったのか。それは肥沃な土地から収穫される大量の米と、おだやかな瀬戸内海から採れる塩、そして早くから朝鮮半島と深い関係を保っていたことによる、先端技術の導入から得た鉄の生産などがあったものと思われます。このような魅力あふれる吉備政権を、覇権欲の旺盛な大和政権が座視している訳がありません。 
 
 突然ですが、皆さんは桃太郎の昔話をどのような感覚で受けとめていらっしゃるでしょうか。桃太郎は民衆を苦しめる鬼を退治した英雄として、全国で語り継がれて来ました。そして、ここ岡山県では桃太郎のモデルは吉備津彦命となっていて、退治した鬼というのは鬼ノ城に巣喰う温羅(うら)ということになっているのはご存知の通りです。そして、吉備津彦命は吉備の国を温羅(うら)という鬼から救った英雄として、吉備津神社及び吉備津彦神社に祀られているのであります。所が、日本書記の記述によりますと吉備津彦命の正体は、第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇子でその名を五十狭斥彦命(いさせりひこのみこと)と言って、吉備の国を討伐する為に大和政権から送り込まれた征討将軍ということになっています。そのことを裏付ける史跡の一つが、吉備中山の山頂にある茶臼山古墳で、この古墳は他の古墳と違って宮内庁管轄となっており、五十狭斥彦命の陵墓とされているのであります。伝説では、温羅は果敢に戦いましたが力尽きて五十狭斥彦命に討ち取られてしまいます。その後五十狭斥彦命は、吉備津彦命を名乗るようになるのです。
 そもそも、吉備津彦命とは吉備の国の大王に対する尊称であって、それは上道氏(かみつみちし)でも下道氏(しもつみつし)でもなく、温羅自身が大王を自認し、自ら名乗っていたものと考えるべきです。(この解釈の原形は、岡山県小学校国語教育研究編纂の「岡山の伝説」の中にあり、筆者の推理を加えさせて頂きました)
 要するに、吉備の国の大王は後の為政者の作為によって、温羅という鬼に仕立て上げられてしまったという解釈が成り立つのであります。残念ながら、吉備の国も一枚岩ではなかったのでしょう。早々に降伏或いは恭順の意を示した豪族も多かったはずで、彼等は後に国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)などとして、大和政権に組み込まれてゆくことになります。因に、桃太郎の昔話に出て来る犬や猿・きじは、もしかしたらいち早く降伏したり恭順を示した豪族達の姿だったのかも知れません。
 
 こうして、吉備の国に大きなくさびを打ち込んだ大和政権は、その後も色々画策し、執拗に吉備の国の力を剥ぎ続けてゆきます。その一つは、下道前津屋(そもつみちのさきつや)の事件です。

 下道氏の首長である前津屋が反乱を企んでいるとでっち上げられ、虐殺されてしまいます。今一つは、上道田狭(かみつみちのたさ)という上道氏(この旭東平野を地盤とした豪族)の首長を、これも謀略によって国外へ追放し、抵抗する力を失わせてしまうのであります。その上道田狭の事件とはこうです。

 彼の妻の名は稚姫(わかひめ)といって絶世の美女だったそうです。その事を知った第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、夫の田狭に用事を言い付けて朝鮮へ赴かせ、その隙に稚姫を奪って自分の妃にしてしまいます。その事を知った田狭は朝鮮で反乱を起こそうとして果たせず、再び日本の地を踏むことはありませんでした。やがて、稚姫は星川皇子(ほしかわのみこ)という皇子を出産します。上道氏一族はこの皇子を次期天皇にしようと、大和政権の有力豪族葛城氏(かつらぎし)の力を借りて画策しましたが、これが絶好の口実を与えることとなり、吉備勢力は葛城氏共々破滅させられてしまうのであります。

 

 旧山陽町(現赤磐市)に、両宮山古墳という堀をめぐらした美しい巨大古墳があることは、皆さんもよくご存知の通りですが、この古墳こそ上道田狭の為に造られ、しかもその主は埋葬されておらず、古墳は未完成のままではないかという説があり、目下発掘が進められているのであります。もし、発掘の結果そのことが証明されるならば、前述の事件を裏付けることになるのであり、大いに関心が高まっている所であります。

 以上のように、王国として絶大な勢力を誇った吉備の国も、桃太郎伝説や日本書記他の史書の記述が物語るように、大和政権の執拗な圧迫を受けて、ついに6世紀初頭の頃には完全に同政権の支配下に組み込まれてしまうのでありますが、その全盛期の輝きは今なお残照として私共の胸中にあるのであります。

  (吉備王国編 完)

《注》 この章の執筆にあたり、以下の文献を参考にさせていただきました。
  ★ 株式会社 日本標準発行
     岡山県小学校国語教育研究会 編纂
    『岡山の伝説』
  ★ 東京経済 発行 高見茂氏著
    『吉備王国残照』
  ★ 株式会社 山川出版 発行
    藤井学氏・狩野久氏・竹林栄一氏・倉地克直氏・前田昌義氏著
    『岡山県の歴史』
  ★ 山陽新聞社
    『発行古代吉備国』