旭川・吉井川等の沖積作用によって出来上がった旭東平野は、肥沃な土壌と水利に恵まれていて、水稲栽培の適していたことは疑うべくもなく、この地域を支配する者は早くから富と権力を貯えていったにちがいありません。その証しが備前車塚古墳であり、操山古墳群であります。因に、備前車塚古墳というのは四御神の北、龍の口山の中腹にあり、前方も後方も四角い形をした珍しい形状の古墳で、最古級の古墳として知られています。また、操山には数十基におよぶ古墳が確認されていて、中でも山頂近くにある金蔵山古墳からは大量の鉄製品が出土しており、いずれも当時の権力者の威勢を偲ぶに十分な遺跡であります。

 勿論、備中方面へ目を転ずると楯築(たてつき)遺跡に始まって造山古墳あり作山古墳あり、弥生時代から古墳時代にかけては、この吉備地方が独自の政治基盤を築き、王国として輝きを増していた時代ということが言えます。

 
 それでは旭東平野を、そして吉備の国全体を支配した王は一体誰だったのでしょうか。日本書記の記述には上道氏(かみつみちし)下道氏(しもつみちし)加夜氏(かやし)等の名前が出て来ることから、これら豪族の連合体で秩序が保たれていたということも考えられるし、或いはまた、それら諸豪族を統括する、もっと強力な支配者が存在したということも当然考えられます。

 いずれにしても全盛期の吉備の国は、岡山県下を中心に東は兵庫県西部、西は広島県東部に勢力を張る一大王国であったであろうと考えられます。

 

 所でその頃、他の地域の情勢はどうだったのでしょうか。当時、日本は水稲栽培の普及に伴って人口は増大し、いわゆる興隆期にありました。そして我が吉備の国と同様、近畿・九州・山陰にも各々の王国が形成されてゆきました。その中にあって近畿の大和王国がもっとも覇権欲が旺盛だったはずで、その事は他国も敏感に察知していたと思います。吉備王国の首長がこのような大和の動向に対して全く無防備だったとは思えません。何等かの備えをしていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 そのような背景から、筆者はある大胆な推理をめぐらしております。時代は下り、大化の改新後の663年、日本と親交の深かった百済(くだら)が唐と新羅(しらぎ)の連合軍に攻められ、日本は3万人もの援軍を百済に送って戦いましたが、白村江(はくすきのえ)という所で大敗を喫して逃げ帰ってきました。この時、唐・新羅軍の本土侵攻に備えて、急いで防衛拠点を西日本各地に築造しました。福岡県の大野城を始めとする、いわゆる今で言う古代山城のことでありまして、勿論吉備の国にも複数の山城が造られ、それらのことは日本書記等の史書で明確になっています。

 所が、なぜかどの史書にも出て来ない古代山城が、実はこの旭東平野の一角に存在しているのです。

 奇しくも、昨年(平成17年)国の史跡としての指定をうけましたので、ご存じの方も多いと思いますが、その名は大廻り小廻り山城(おおめぐりこめぐりやまじょう)と言って、ちょうど旭東平野が一望できる岡山市草ヶ部の山中にあるのです。この城が、いったい何時頃、何の為に誰よって築かれたのか。勿論定説では、前述の史書に出て来る諸城と同じ目的で、同じ7世紀頃大和政権によって築かれたものとされていますが、本当にそうだったのでしょうか。

 筆者は現地見て以来、ずーっとその疑問を抱き続けて来ています。なぜならこの城の城域の規模こそ、あの壮大な鬼ノ城をも凌ぐスケールを持っていますが、その築城技術はというと、鬼ノ城や屋島城(屋島も古代山城)等とは比べるべくもないお粗末さで、とても外国の軍勢を迎え討つに耐えられるとは思えない造りだからであります。なにしろ、城壁と言っても一部石組みもありますが、大半は要所要所に1m〜3mの土塁を構築している程度の備えで、しかもその土塁というのは、ちょうど古墳を造るのと同じ手法で造られていて、時代的にも当時の吉備の国とぴったり符号するのです。

 察するに、この大廻り子廻り山城こそ当時の吉備が大国としての威信に掛けて、他国の侵略を阻止すべく、時の首長が吉備王国防衛拠点としようとして築造したのではないか。筆者はそのように信じたいのであります。

 

 こうして吉備の王国は、王国として独自の発展を遂げてゆくのでありますが、それも残念ながら長くは続きませんでした。古墳時代も中期、5世紀にはいりますと大和政権の執拗な攻撃と謀略の前に除々に衰退への道をたどることになるのであります。

(吉備王国編 後編 に続く)

吉備王国の城・古墳群