この時代の特筆すべきこととしては、なんと言っても荘園の発達と、武士団の台頭を挙げなければなりません。
 奈良時代に施行された「班田収授の法」は、一見完璧に見えて色々と欠陥があり、程なく永続が困難となって「墾田永代私有の法」という法律に主役の座を譲ることになります。この法律の成立が、やがて荘園制を助長し、その荘園から吸い上げられた巨万の富が、あのきらびやかな平安の貴族社会を生み、一方で源平の武士団を育ててゆく温床となる訳です。

 なぜ「墾田永代私有の法」が、そのような社会を産み出すことになったかと言うと、文字通りこの法律は、私的に開墾した田畑については開墾者代々の私有を認める、という主旨のものであったからです。この法律に素早く反応したのが、中央の有力貴族や寺社でした。彼等が、全国の関わりある地域で競って新田開発に励んだであろうことは、想像に固くありません。そのようにして出来上がった私有の領地が、すわなち初期において荘園とよばれるものでした。

 ところが、これらはあくまでも私有の領地ですから、いつ外敵の侵略を受けないとも限らず、それらに備え、また耕作する農民を管理するためにも、どうしても武力を用いる必要にせまられ、領主はせっせと武力を養うようになります。これがいわゆる武士団形成の端著であります。武士とは「侍う者」といわれるように当初は、中央の特権階級に隷属する存在だったのですが、ご承知の通り平安末期の保元・平治の乱を境にして、武士団の頭領である源氏・平氏が、その武力を背景に朝廷や貴族を圧倒して政治の実権を握るようになり、以来明治維新までの700年間、武士は日本の実政治に君臨することになる訳です。

 一方、地方の有力者も勿論一生懸命新田開発に打ち込みますが、とても自らの力でこれを守り抜くことは困難でした。そこで考え出されたのが、これらの開発領地を中央の特権階級である貴族や寺社に寄進するという形を取ることによって、彼等の庇護と税の優遇措置を受けようとする動きが、盛んになって来ます。この結果、日本中は至る所荘園だらけとなり、そこから挙がる富は中央の特権階級に集中し、かのきらびやかな平安貴族社会が出現することになったのです。
 
 さて、それではここ備前の国では、どのような荘園が出現し、どのような武士団が育って行ったのでしょうか。
 文献が、少なく全体像はとても把握できませんが、まず荘園について申しますと、例えば「西大寺」とか「大安寺」という地名がありますが、これらは文字通り中央寺院の荘園だったことを示すもので、大安寺の南の野田などは、かつては野田保と言って平家により焼き尽くされた東大寺を再建するために開発された荘園の名残りです。また、この旭東平野の兼基なども曲折はありましたが、藤原氏の荘園となったもののようです。
 数ある備前の荘園の中で最も有名なのは、なんと言っても「鹿田の荘」と呼ばれた荘園で、古くから藤原氏によって開発され、藤原宗家の四大荘園の一つに数えられた代物です。その規模は、現在の天瀬から鹿田、西市、青江、浜野に及ぶ旭川右岸一帯の地域を占め、当時すでに数千石の米を生産し、徴収した年貢米は数百石単位で倉庫に収納されて、旭川河畔から船で都に運ばれていたようです。当時の鹿田周辺が描かれた有名な古地図がありますので、末尾へ掲載しておきます。
 次に武士団について申しますと、当時で最も有名なのは妹尾一帯の新田を開発した妹尾兼康(備中)という武将です。その他、吉備津方面に地盤をもっていた難波経遠兄弟なども太平記に名前が出て来ており、いずれも平家の有力な武将だったようです。

 いずれにしても、この備前一帯は平安末期、平正盛・忠盛父子が長く国司を努めた経緯もあって、台頭した武士団はいずれも平家に糾合され、この地は平家にとって重要な戦力基盤となって行ったようです。ご存知の鹿ヶ谷事件の藤原成親、相続問題で清盛の怒りを買った関白藤原基房等重要人物が、いずれも備前へ配流になったというもの、彼等を監視するに絶対的な平家の信頼を得た、武士団がこの地域存在していた証しと言えるでしょう。

 それだけ備前の国は、備中・美作も含め平家色が強かっただけに、平家を破った源氏はこの地方に対しては特に力を入れて、有力な守護地頭を送り込み、平家勢力の一掃を図ることに神経を使いました。
 因みに、備前・備中の最初の守護には、あの勇猛な武将で知られた土肥実平が、播磨・美作の守護には頼朝の信任が群を抜いていた梶原景時が選ばれました。また、児島は藤戸の合戦で功名を挙げた佐々木盛綱に与えられました。
 こうして時代は貴族が政権を握る律令制国家(奈良・平安時代)から、武家が実権を握る封建制国家(鎌倉・室町時代)へと移ってゆくことになります。
備前国上道郡荒野庄領地図
 備前国上道郡荒野庄領地図(大宮文庫)

<注> 荒野とは、現在の綱ノ浜・平井一帯。上下に流れている鹿田川と書かれているのは旭川のこと。鹿田川右岸が鹿田の荘。下部に横に細長く描かれてた島は児島半島。

   参考文献:(株)山川出版社 発行 「岡山県の歴史」
 
 
以  上