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足利尊氏は、鎌倉幕府打倒のために共に戦った児島高徳など、我が備前・備中の諸豪族を敵に廻し、楠木正茂や新田義貞らを倒した上、後醍醐天皇を吉野の山中に追いやってまでして、新たな武家政権を樹立しました。彼を天下の逆臣とするのは、これらの由縁による訳です。その本拠を京都の室町に置いたことから、この政権を室町幕府といいます。時に、1338年のことでした。 |
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この政権は、発足当時からゴタゴタが絶えませんでした。例えば、初代尊氏自身が発足後間もなく、親子兄弟で争いを起こしたかと思えば、ある時は将軍が家臣に暗殺されるという事件が起きる有様で、その上自らの私欲と感情のみで政治を行うようなお粗末な将軍が多く、著しく安定度を欠いた次元の低い政権であったと言わざるを得ません。その結果が日本全土を戦国争乱の世に陥れたと言っても過言ではないと考えます。 |
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室町政権は、一応、形の上では、15代230年余り続いたことになっていますが、実際には、1467年に勃発した応仁の乱以降は、殆んど死に体になってしまったという、なんともお粗末な情けない政権だったのです。 |
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応仁の乱とは、応仁元年(1467年)有力守護大名の相続問題を発端として、これに将軍家がからみ、さらに政権内部で覇権を競い合う山名氏と細川氏がからんで、各々東西に分かれて京都を中心に、10年余りに亘って死力を尽くして戦われた内乱のことを指します。 |
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この戦乱によって、京都は焼野ヶ原となり、幕府権威は失墜、日本全土はいわゆる下剋上の戦国時代へと突入してゆくことになるわけです。 |
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さて、その不安定な室町時代、この備前の国一帯は、果たしてどのような動きになっていたのでしょうか? |
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まず最初に、室町幕府から備前守護職に任命されたのは、西播磨を地盤とする佐用の庄出身の赤松氏でした。この赤松氏は建武の中興即ち後醍醐天皇親政発足に加わりますが、足利尊氏と共に離反し、足利政権樹立に功績があったとして、備前の守護職を得たものでした。ところが、1441年この赤松氏が6代将軍義教を暗殺するという事件を起こし、追討されてしまいます。その結果、この討伐に功績のあった前述の応仁の乱で活躍する山名氏が但馬・因幡・備後等と共に備前守護職を与えられます。このため山名氏は、備前福岡に新たに城を築き、ここを拠点に備前の統治に乗り出したのです。しかし、程なくして勃発した応仁の乱によって、山名氏は精魂を使い果たして衰微の一途を辿ることになり、逆に乱後息を吹き返した赤松氏にあえなく、取って変わられてしまいました。 |
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再び備前の国を手中にした赤松氏は、東備前を家臣の浦上氏に、西備前を地元有力豪族の松田氏に、各々守護代として、治めさせることにしたのです。時は15世紀末、正に戦国争乱の時代へ突入しようとしていた頃でした。 |
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ところで、我々の身近な龍ノ口山城や中島城はその頃どのようになっていたのでしょうか?これらの城がいつ頃構築されたかは不明ですが、少なくとも城として本格的に機能するようになるのは、この1400年代後半頃からではなかったかと推測されます。勿論当時両城は共に松田氏の配下に属する訳ですが、中でも龍ノ口山城主の穝所氏(穝の出身か?)は、中島の中島氏・牧石の須々木氏・赤田の清水氏・西川原の近藤氏等、周辺の城主を束ねる松田氏の中で重臣的存在であったと思われます。 |
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時は既に戦国、東の浦上氏も西の松田氏も互いに赤松氏の配下とは言え、浦上氏は西備前へ、松田氏は東備前へと食指を伸ばしていたため、ここ旭東平野は、東の浦上氏に備える西の松田氏の防衛前線の役割を担っていた感があり、常に緊張状態が続き、小競り合いが再々起こっていたようです。 |
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そのような背景の中で、やがて浦上氏の家臣の中から頭角を現してくるのが、かの悪名高い宇喜多直家です。その残忍悪辣とも見える活躍振りについては、次章でご紹介します。 |
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以 上 |
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