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今から約2万年前、地球上は4回目の氷河期を迎え、海岸線は後退して瀬戸内海は一面の草原となりました。今もってナウマン象の骨が魚網にかかることがそれを実証しています。その頃、操山や龍ノ口山麓に住んでいた我々の祖先は、鏃(やじり)や手刀となるサヌカイトの原石を求めて、四国の屋島方面まで出かけていました。 |
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ところが、今から1万年ばかり前から気温が上昇に転じ、氷が溶けて除々に瀬戸内にも海水が浸入してくるようになりました。いわゆる縄文の海進です。海進のピークは約5千年前頃と推定されており、その頃は旭東平野の大半が海中に没し、平地に住んでいた人々は丘陵地へと移住することになります。これに先立ち、ちょうど気温が上昇し始める頃のこと、人々は土器の作り方を発明します。いわゆる縄文時代の幕開けです。 |
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その後、旭川吉井川砂川の沖積作用等によって旭東平野の海岸線は少しずつ後退し、また人々の住める環境が整い始めます。 |
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縄文時代というのは、いわゆる自然の恵みに頼ってのんびりと暮らしていた時代であり、きっと平和そのものだっただろうと思われます。当時の土器の一つを見ても色々な装飾を施す等、生活を楽しんだ様子がよくうかがえます。 |
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人類が定住するようになって営々と続いたそのような平和な時代は、今から約2500年前から突然様子の違った時代へと変革を遂げることになります。東京の弥生町でみつかった土器が、従来のものと明らかに違いがあることから、学者はこれを弥生式土器と名づけこの時代を弥生時代と呼ぶようになるのです。 |
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縄文時代から弥生時代へ、それは、土器の違いに隠された、まさに古代における産業革命とも言うべき大変革だったのです。 |
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それでは、その時一体どんな事が起こったのでしょうか。自然の恵みに頼って生きて来た縄文人にとって、それは晴天の霹靂(へきれき)とも言うべき出来事だったのです。そうです、ある日突然大陸の文化とその文化を支える技術が伝来したのであります。 |
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その文化というのは、誰がどこからもたらしたのか。南方方面からなのか、或いは朝鮮半島からなのか。考えると興味は尽きませんが、当時朝鮮半島が争乱続きだったこと、この後色々な面で朝鮮との交流が深くなっていくことなどを考え合わせると、それらをもたらした者は南方でも北方でもなく、国内の争乱を逃れて新天地日本を目指して渡来した朝鮮人であったにちがいありません。 |
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彼らがもたらした文化とその技術、それは当時としては画期的な事でした。酒の造り方、天文・気象の知識、米の水稲栽培その他諸々だったことでしょう。中でも米の水稲栽培は、米の大増産をもたらすこととなり当時の社会の様相を一変させることになるのであります(その頃国内でも陸稲は栽培されていたと考えられています)。すなわち、持つ者と持たざる者、支配する者と支配される者を出現させ、支配者は一層の権力拡大を目指して、他の支配者と抗争を繰り広げる、そのような社会を出現させることになるのです。水稲栽培が普及してからの時代、すなわち弥生時代は、まさに争乱の時代であった訳です。魏志(ぎし)の倭人伝(わじんでん)に「倭国大いに乱れる」と記載されている事が、それを裏付けています。肥沃な土地と天候に恵まれた旭東平野を含む吉備地方では、早くから水稲栽培が盛んに行なわれていたであろうことは、津島遺跡・沢田・原尾島遺跡などから明白であり、2〜3世紀頃には、既にその生産力を背景とした「吉備の国」と言われる一大勢力圏が形成されるようになっていきます。そして、旭川・高梁川流域を中心としたこの地方が、やがて歴史上燦然と光を放つ「吉備王国」の時代へと発展してゆくことになるのであります。 |
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吉備王国編へ続く・・・ |
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