第4章 戦国時代の中島地区とその周辺



 戦国時代の中島地区周辺のお話をする時に、良くも悪しくも宇喜多直家に触れないで語ることはできません。


 宇喜多氏は、建武の中興に功績があった兒島高徳の後裔と称しており、『兒』の旗印をもって備前守護代浦上氏に仕えて来ました。直家は、1529年(享禄2年)邑久町砥石城に生まれ、祖父能家に育てられたが、6才の時島村観阿弥に急襲されて祖父は討たれ、城は落ち、自身は備前福岡の豪商に密かにかくまわれて生き延びました。その幼い頃の辛い体験からか、彼は生涯極悪非情の人生を歩むこととなり、当地区周辺も少なからず彼の影響を受けるのであります。

 そもそも、当地区は古くから金川の松田氏の勢力下にありました。中でもさいに館を持つさい所元常は、竜の口山城の城主として松田氏の中でも重臣であっただけに、この周辺一帯では対立していた浦上・宇喜多勢と度々衝突が起こり、その度に一帯は甚大は被害を蒙る状況にありました。
 やがて、元常は直家の謀略に掛かって殺害され、当地区の中島氏・牧石の須々木氏・西川原の近藤氏等、こぞって宇喜多氏へ恭順を示して生き延びることになりますが、それもつかの間、1567年夏に勃発した備中三村氏と宇喜多氏との一大合戦の渦中に巻き込まれ、戦禍の傷跡を深く残すことになってしまうのです。そして、中島氏・須々木氏は共に勢力を失い、石山城(岡山城)の金光氏は滅亡の道をたどります。

余談になりますが、極悪非情の直家にも実は誰一人語らない隠れた功績がありました。それは、最晩年になって下した最後の決断、すなわち毛利方と決別して信長方に味方することを決した事であります。実は意外にもそのことが日本全土を戦乱に巻き込んだ100年余にも及ぶ戦国の時代を、ついに終末へと向かわせる原動力となったのであります。
 
※宇喜多直家の詳細については、The Lit City Museumにあります。
The Lit City Museumのページにて、宇喜多直家を検索してみてください。

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