第5章 明禅寺合戦について



 備前一帯の覇権を競う備前沼の宇喜多直家と、備中松山の三村元親が総力を挙げて、この旭東平野で激突した戦いを、世に明禅寺合戦と言います。以下、備前軍記をもとに筆者の推理も加えて合戦の様子を再現してみたいと思います。


 時は1567年(永禄10年)夏、父の弔い合戦をと意気込む三村元親は、集められる限りの軍勢2万余を辛川市場付近に集結。一方、これを察知した宇喜多勢は決死の軍勢5千をもって、これを迎え討つこととなりました。

 早朝、三村軍が進軍を開始したとの報告を受けた直家は「今こそ戦機は熟したり」と、直ちに穴甘鼻(東岡山)一帯へと繰り出した。この戦いの勝敗は明禅寺城の争奪如何にあると見た宇喜多勢は、同城めがけて一直線に突進し、一刻(2時間)を経ずしてこの城の奪回に成功した。

 (明禅寺城は、宇喜多氏が前年の秋操山東端に築いたものであったが、三村方がこの戦いの数ヶ月前に奪い取っていた)一方、三村方は2万の大軍を3手に分け、先鋒7千は清輝橋の南側から旭川を渡って明禅寺城の応援に向かい、中軍5千は番町側から原尾島方面へと進軍。本隊8千は、三野側から釣の渡しを押し渡って、土田・矢津を通って宇喜多の本拠沼城を攻め落とそうと軍を進めた。

 しかし、何分にも大軍のため渡河に手間取ってしまい、先鋒・中軍がいざ戦闘態勢を整えようとした時には、既に要である明禅寺城は敵に奪われ、火の手が上がり始めていた。

 程なく、味方の城兵が右往左往しながら敗走して来るのを見て、三村軍は浮き足立ってしまい、追走して来た宇喜多勢に散々に打ち破られ、混乱状態に陥ってしまった。先鋒の大将庄元祐は、国富あたりで奮戦するもついに討死。一方、浜から東川原あたりまで退いた中軍は、態勢の立て直しに懸命であった。これを見た三村本隊は、急いで引き返し雄町方面から宇喜多本隊へと斬り込んで行き、中軍も必死に応戦した為、高屋・関方面から清水・浜あたりにかけて一刻近く激しい白兵戦が繰り広げられた。そこへ、三村の先鋒軍を打ち破った宇喜多の一隊が原尾島方面から三村軍の横合いへ突き進んで来たため、三村軍はたまらず竹田・中島方面へと敗走、我先に旭川を渡ろうとして散々に討ち取られる始末となってしまった。


 総大将三村元親も、やむなく無念の想いを胸に敗走し、宇喜多方の大勝利となったのです。

 この戦いによる三村軍の戦死者は数知れず、地元民はこれ等を集めて塚を作りその霊を弔ったが、塚の数だけでも20数ヶ所に及んだそうです。寡兵をもって大軍を破った例としては、信長の桶狭間の戦い、楠木正成の千早城の戦い等が有名ですが、それに匹敵する結果となったのが、この明禅寺合戦でありました。

※宇喜多直家/明禅寺城の詳細については、The Lit City Museumにあります。
The Lit City Museumのページにて、宇喜多直家/明禅寺城を検索してみてください。

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