第6章 中島の首塚について



 当地区の東北端、今在家と境を接する所に立派な石碑が建てられています。石碑の額には、『三村が群臣のかばねをうずめる塚の碑』とあって、245文字の碑文が整然と刻まれています。その石碑が立っている一角を「中島の首塚」と言います。


 前章でご紹介した通り、1567年(永禄10年)備中の三村氏と備前の宇喜多氏が総力を挙げて、この旭東平野を舞台に戦った戦さを、後世明禅寺合戦と言います。地元民がこの合戦で敗れた三村軍の戦死者を集めて葬り、塚を作ってその霊を弔ったと碑文に刻まれています。塚は当時多数作られ、その痕跡は今もあちこちに見当たりますが、その中でも碑文を刻んだ石碑が残っているのは、この中島の首塚だけです。

 江戸時代後期、近隣の篤志家大森尚則氏・成氏父子が、この首塚が草むらに埋もれているのを憐れんで、1845年(弘化2年)自費で石碑を建立したそうです。

 また碑文には、毎年お盆の7月14日15日の両日、近隣の村人が万燈会という行事を行って、戦死者の霊を弔った事等の記述もあります。実は、この地区では現在も盆踊り・秋祭りの行事の時、小学生が紙灯籠を作ってあげる風習がありますが、これこそ正に当時の万燈会の名残りではないかと思われます。

 現在の説明板には、原文のままの碑文も掲載してありますので、是非一度尋ねてみてください。 
 以下、碑文の読み下し文を掲載しておきますので、ご参考にしてください。


中島の首塚の碑文

 三邨(みむら)が群臣の尸(かばね)をうずむる塚の碑

塚は備前上道郡中嶋村北に在り。永禄中三邨氏の兵浮田氏の為に敗れし所、そこに戦死せし、群臣の尸をうずむる也。三邨時に毛利氏に属す。浮田と毛利和するに及び、僧を集め塚を弔わんが為に近傍の湯迫、四御神、土田の三村毎年七月十四、十五両日、炬火(かかりび)を其の山に挙げ以って冥福を祈る、郷人(さとびと)称して万燈会(まんとうえ)と曰う。今に至るも廃せず。蓋し(けだし)兆域方丈(ちょういきほうじょう)乱草生え、人のその墓なるを識るなし。大森成これを愍(うれ)い、石表を立てんと謀るもこれを果たさずして没す。其の父尚則文を余に属して成の志を成さんと欲す。因って案ずるに三邨家親(いえちか)備中松山城主なり。将兵を美作に出すに、直家遠藤某を使いて之を殺す。家親の子元祐(もとすけ)、元親(もとちか)父の讐聞(しゅうぶん)を復せんと欲し、直家を明禅寺砦に攻める。乃ち将兵2万備前に入り、此の郊に戦う。大敗実に哀れむ可し。浮田氏の亡び、備人之を忘れる。而(しか)るに此の塚は則(すなわ)ち、絶えず三邨が群臣の霊庶(れいしょ)を弔祭(ちょうさい)す。

 あヽ、慰むべきか乃ち銘に曰く

 蝸角(かかく)の戦争、いずれか負け、いずれか勝つ、其の魂を安ぜよ、千祀の萬燈


現在の首塚

首塚


※宇喜多直家/明禅寺城の詳細については、The Lit City Museumにあります。
The Lit City Museumのページにて、宇喜多直家/明禅寺城を検索してみてください。

岡山発ネットミュージアム