第7章 中島城と中島氏について



 何時の頃からかは解りませんが、少なくとも室町時代(15世紀)から戦国時代(16世紀)にかけて、地元の有力支配者である中島氏の居館を中島城と呼ぶようになったようです。

 つい最近まであった城跡の標識は、残念ながら新道路建設のため撤去されましたが、ご存じのように竹田中島橋の東詰下あたりが城のあった所と推定されています。その場所は地名もかつて城主であった中島大炊介に因んだ『大炊』という地名になっています。

 最近の遺跡発掘調査の結果、城跡と思われる場所を囲うように3〜5メートルの堀が確認されており、伝承の通りの堀で守りを固めた館風の城があったものと推測されています。

 城は、前章でご紹介した明禅寺合戦において三村・宇喜多両軍によって蹂躙(じゅうりん)の憂き目に会い、時の城主中島大炊介は沼城での戦勝祝いから帰った所を、城の裏の巨木の影に隠れた刺客によって殺害されたと伝えられています。(この巨木については、江戸時代の資料で幹廻り8m余りになる椋の大木であったことが確認できています。)
 しかし、多分その合戦後も城は辛くも残ったのでしょう。城主大炊介の子孫はここを拠点として池田氏に代々仕えて来たと伝えられています。そして、血筋は連綿と現代に受け継がれてきたようで、現に下関・茨木に直系のご子孫がご健在と聞き及びます。当地区にも中島姓の方が多くいらっしゃいますが、或いはかつての中島城主に連なるご系譜ではないでしょうか。

 なお、中島氏の出自(しゅつじ)については、筆者は地元台頭説を指示しますが備中説・美作説等諸説あることを念の為ご紹介しておきます。

 ところで、城跡とおぼしき所には古くから小さな祠が祀られてあり、地元民には若宮様として親しまれてきましたが、(現在は前述の通り撤去された)若宮様ゆかりの人に伺いますと、これはそもそもこの館の屋敷神様であったそうであります。
 さて、一つの興味深いことは当地名の『中島』と、その支配者が『中島氏』であったという関係であります。始めに地名があったのか、それとも中島氏が支配していたから地名がそうなったのか、確たる資料がないだけに興味は尽きません。

              旧中島城址(百間川堤防下)                       新中島城址(中島バス停付近)
      旧中島城址      新中島城址