第8章 百間川について



 古来、山陽道は国家の最重要官道として、その使命を担ってきました。その重要な幹線道が、なんと我が中島のはずれを通っていた時代があったというお話しです。


 山陽道は、海岸線の変化に伴い、時代と共に幾度か変遷を重ねて今日に至りました。初めて都と九州が一本の道路で結ばれたのは、大宝2年(702年)と書物にあります。

当時は、船坂峠を越えて西下し、和気で吉井川を渡って可真・町苅田を経て御津町金川に出て、旭川を渡り辛香峠を越えて、辛川市場へ出ていたそうです。それが、いつの頃からか、赤磐郡可真から山陽町に入り(当時は山陽町という地名はなかった)、牟佐から旭川を渡って御野に至るようになり、また更に時代が下って鎌倉時代になりますと、何と当地中島のはずれが旭川の渡し口となるように変わっていくのであります。

 その頃の備前地域の概略ルートをたどりますと、船坂峠を越えて備前に入った山陽道は、三石から伊部・香々登を通って長船で吉井川を渡り、浦間・平島・沼・古都・土田を経て当地中島へと至り、ここで対岸の御野へ渡り、法界院の前を通って津島から楢津・辛川市場へ出て、板倉の宿で備中へと出て行くルートになっていました。

 そして、中島と御野を結ぶ渡しは『鑵子の釣の渡し』と呼ばれていました。対岸の舟着場となった御野公園の突端の地形が、ちょうどお酒の鑵(かん)をする道具、鑵子(かんす)の釣(取手)に似ている事から『鑵子の釣』という地名が生まれ、その地名が渡しの名称となったようであります。

 この渡しは、中世の争乱の時代、少なくとも約300年間にわたって東西交通の主役の座にあったはずで、足利尊氏が新田義貞等によって九州へと追われ、程なく勢力を盛り返し、室町幕府を打ち立てるべく東上した時も、三村元親が宇喜多直家を打つべく大軍をこの旭東平野へ乱入させた時も、この渡しが重要な役割を果たしたのであります。


御野の船着場 中島の船着場

中島側から御野の船着場方面を臨む

中島側の舟着場付近