明禅寺合戦戦死者首塚
永禄10年、備中三村元親が宇喜多直家に父の弔い合戦として挑んだ一大決戦を世に明禅寺合戦と言い、三村勢は無念にも大敗し、一万数千人もの将兵が戦死しました。住民は、戦場となった操山北側平野一帯のそこここに戦死者の首塚を建て霊弔ってきました。時代は下って、弘化2年、地元の大庄屋大森尚則が亡霊を慰めるために建立した碑が今に残る中島の首塚碑です。