NO 地番 氏名 NO 地番 氏名
1 324 中村亀夫 23 354 中村吉夫
2 291 中村孝正 24 248 大森勇夫
3 290 大森斧太 25 251 大森清治
4 服部久太 26 252 大森栄治
5 中村伊勢次 27 30 浅野富梅
6 334 大森真千 28 駐在所
7 藤原時子 29 床屋
8 337 大森 恭 30 19 中西幹夫
9 392 大森万寿太 31 17-2 吉松久米吉
10 空家 32 17-1 大森八百太
11 343 大森 実 33 27 中西 猛
12 344 大森太郎 34 21 近藤正一
13 280 大森喜作 35 中田猪吉
14 279 大森仙太郎 36 14 中村 茂
15 345 久山利喜夫 37 203 大森菊次
16 349 中村伝造 38 205 大森純一
17 350 大森信太 39 208 大森忠亮
18 277 大森粂造 40 210 大森元尾
19 公会堂 41 163 大森佐一
20 351 大森一正 42 198 大森 登
21 260 松本辰夫 43 197 大森金男
22 258 中村金三郎 44 165 大森義一
温 故 知 新
昔のことを究め、また古きを復習することで、気付く新発見はよくあることです。
過去の事実とともに現実の事象を認識することの多い昨今です。


中井の風土記 (文中敬称略) 大森晃(大正14年10月11日生れ)
昭和20年(1945年)頃の中井の世帯地図と住人
中井は其の昔、教育に熱心な村だった
 昭和初期から終戦頃までは他の村に比べ教員が多かった。先にも記述しましたが中井には「十講堂」の地名があり、この地名に由来するように教育に熱心だった土地柄です。明治、大正に入り、とにかく当時の勉強の仕方は物凄いものだったと聞いております。文章にするのは少しはばかります。とにかく命がけだった。

 【教員関係(50音順、以降敬称略)】
氏名 勤務校 教目 卒年 享年 備考
大森佐一 幡多小学校 平成元年 77才
大森 登 公文尋常高等小学校 校長 昭和60年 85才
大森保平 岡山師範学校 主事 昭和16年 47才 柔道3段ほかスポーツ得意
大森一正 津山工業 校長 数学 昭和55年 85才 老後は冠句に凝る
中村伊勢次 岡山第一中学校 教頭 数学 昭和23年 65才 趣味は投網で玄人肌
中村亀夫 丸の内中学校 校長 物理 昭和55年 79才 D.I.Y.S

 特に中村伊勢次氏は教育に熱心で今で言う塾の様なものを開いておられた。当時、一中の秀才の生徒の高等学校、大学を目差しての補習授業をされていた。夕方になると生徒の自転車が列をなしていた。私等、子供心にも将来、自分もよく勉強ができればよいなあと思ったものだった。この学習意欲に対するなんとも言えないよいムードがあったのが本当に懐かしい思い出です。
 なお、岡山市表町、中村産婦人科初代院長は氏の御子息です。

 【絵画関係】
 ○中西次郎氏
   昭和10年、東京芸術学校次席卒業、在学中帝展入選、昭和63年卒、享年78才。
   中西画伯について特筆したいことがあります。それは脇田の安養寺本堂の壁、天井の「絵」
   です。何日もかかり苦労されて制作されたと聞いております。御住職の特別の許可をいただ
   き撮影しました。絵の意味するところは何か、素人の私にはよくわかりませんが興味のある
   お方は是非鑑賞してください。

中西画伯が描いた壁画の1枚
壁画のなかの一枚です。

三途の川の向こうに綺麗な人がいます。早く来なさいと。
あなたはどうされますか。の様です。



・壁画8枚、天井画12枚
・昭和43年3月27日 中西次郎画
中西画伯が描いた壁画の1枚
(安養寺本堂)



 【 お茶、花関係】
 ○中井南の大きな石碑(中西?)詳細は不明で目下調査中です。

 【知事、村長】
 ○大森久五郎氏
   大正5年卒 69才?高島村長歴任、中井南の石碑参照。明治25年の洪水により今在家の
   堤防決壊時、復旧に尽力。

 ○大森吉五郎氏
   昭和13年卒、享年73才? 久五郎氏の御子息。山口県知事歴任、高島神社の燈篭、総社
   宮の参道の改修、燈篭の寄付等。身は県外にあっても心は常に故郷にあった由。

 其の他 有名人多数おられます。
 ○大森藤左衛門氏 天保12年(1841)祇園総社宮鳥居寄贈。
 ○大森佐六郎氏   明和3年(1766)祇園総社宮燈篭寄贈。

  大正11年発行、上道郡誌に人物像が書かれています。高島村のなかで中井からの登場人物は一番多いです。明治の初期頃までは高島のなかでそれだけ重要な役割を果たしていたことでしょうか。

柔道の稽古
 荒神様の敷地の北西に柔道畳(10枚位)収納の小さな倉庫があった。明治末期から大正にかけて富国強兵の社会的背景もあり、これを広場に敷き(少し狭い感じがするが)村の若者が柔道の練習をしたらしい。同時期、他の村も同様であったと聞く。大森保平氏(純一氏の父)もここで練習し3段になられたのか。
 なお、同上、畳、倉庫は昭和20年頃廃棄された。

今も残っている家の面白い呼び方
1 392番地(大森万寿太)は中井本村との間に昔は川があったのか。この為、この家へ行くのに「向川(むかわ)」へ行くと言っていた。

2 344番地(大森太郎)の家は先々代に地鎮堂の南西の字名、天神から今の位置に移転された。この為、この家へ行くのに今でも「天神」へ行くと言う。

3 その家は自分の家よりも北に位置しているのに「東」へ行く(東の家へ行く)と言っている。

注 昔、三勤交代の時、宿場の家は今でも屋号で呼んでいるのと同じ。

大東亜戦争
 大東亜戦争(ここでは敢えてこう呼ばしてもらいます)
 絶対に忘れてならないのは大東亜戦争です。現在の様に中井が、ひいては日本が平和で豊かでおられるのはこの戦いで犠牲になられた人達のおかげです。中井は他の村もそうであったかも知れませんが終戦まで出世兵士の武運長久、元気な身体での帰還を祈願して毎週士曜日の夜、(一日も欠かしたことはない)集会場で中井の各家庭から必ず一人出席して祈祷をあげていた。又、月に一回は婦人会が中心になり龍ノロの八幡様にもお参りしていた。にも拘わらず、願い叶わず帰らざる人となりました。お盆など役員が最近までお墓参りしていました。

氏名 戦場 年月日 年齢 備考
大森 猛 姫路地区 昭和19年8月14日 37才 当時、国内の演習のはげしさは戦地以上だった。命の保障なんかはない。なにかの事故にまきこまれての悲劇。無念の事故死。自動車隊。穏当なお人柄だった。
大森信徳 広島因の島沖 昭和20年3月19日 33才 帝立丸6000Tの第3銃座。艦上の機関銃手の為、標的になりやすく、為に直撃を受け即死。気さくな性格で酒豪だった。
大森義則 ニューギニヤ 昭和19年6月10日 25才 激戦地の一つだった。学徒動員。
中西太郎 沖縄本島南部
摩文仁方面
昭和20年6月25日 26才 陸軍野戦重砲兵、牛島司令官自決後、斬り込み隊を編成、夜襲に出る。将に鬼神も哭く壮絶な最期。抱擁力のあるお人柄だった。

 「高島の風土記」の中井編、編集に際し当時を思いだし改めてご冥福をお祈りいたします。      
                                                 合掌

− 大森家 −     
上道郡高島村(岡山市中井&今在家)


 この家は清和源氏、多田満仲の子孫といい、満仲の子頼親が大和守に任じられてから大和国で繁栄しています(大和源氏)。頼親の曾孫親弘は同国宇野に住んで「宇野氏」を称し、この5世孫下総大掾茂治が大森二郎と名乗ったことからこの大森氏が生まれています。この茂治4世盛治の兄に彦七盛長という人があり、この子孫一族を伊豫大森氏といって、この中の一派が備前国上道郡中井村を中心に栄えました。備中松山藩主水谷家の命で玉島新田の開発の陣頭指揮を執った大森治郎兵衛元直も同族になります。

大森
源満仲 頼親 顧房 頼治 親弘 親治 義治 茂治 治員 行治 彦七盛長

頼行 康治 盛治 頼続

頼明

頼直

頼宗

 中井村に定住した初代宗武(寛文9=1669年歿)の父藤左衛門は字喜多秀家に祐筆役五百石給で仕えていました。
 中井村に帰農して以後は代々名主を勤め、九郎兵衛、庄介と続いて、佐六郎は大庄屋を拝命しています。それより大庄屋職を継承し、喜内卓友、彦五郎保教、藤左衛門保救、増次郎保定と続きます。増次郎の孫が広島県沼隈郡鞆町の桑田家の養子となっています。直系は始太郎で絶家になる。増次郎の娘二人は都窪郡倉敷村の中島屋大橋家の分家に嫁いでいます。

勝助土用
頼宗 宗光 長門守光清 藤左衛門光時 喜代三宗武 九郎兵衡頼重
庄介重友
寛文9 元禄8 延享1

佐六郎光都 喜内卓友 彦五郎保教 藤左衛門保救 増次郎保定 藤次郎保祐 始太郎祐信
安永3 文化5
室露無氏
文政6
室河合氏
弘化3
室武田氏
慶應4
室平井氏
(絶家)
富五郎保満
(桑田家へ養子)
庄介福秀 …………………… 俊(東京在住)

宇之介 …………………………………… 鐵雄(横浜在住)
覚政5


風 呂
 昔は2〜3軒組んで順番で風呂を沸かしていた。当番の家の人は大体、最後に入浴した。焚き物は割木が主だった。釜は五衛門風呂で下から沸いてくる温かみは、なんとも言えない心地だった。時々鉄砲がきたのも懐かしいおもいでだ。

 その他 特記事項あれこれ
昭和14年の渇水について
 この当時の祇園用水は龍の口山の麓の池川からきていた。その為、青年団、消防団を動員し土俵を作りにいった。旭川の方からすこしでも多く水がはいるようにするためです。中井の地鎮堂の角落としの樋をうっていても、やっと田にほんの少し入るだけだった。当然のことながら県の南部の者がきて樋を揚げろと言う。派手な喧嘩になる。中井地区内では農業用の発動機(2.5馬力)を総動員して連日連夜、溝から溝へ配水した。稲はなんとか枯れずにすんだ。以後この様なことは経験していない。

落雷の火災
 中村金三郎氏の藁家に落雷、火災になった。別紙に書いている明治36年製の手おしポンプでなんとかボヤ程度で消しとめた。

十講堂
 中井と県道、原〜藤原線のほぼ中間付近に「十講堂」の地名がある。寺小屋の様な建物が沢山あって地区の者を集めて教育していた−と聞く。中井の大庄屋、大森藤左衛門(祇園総社宮の入口の石鳥居、高島神社の燈篭等寄贈)の時代か。池田斎政との関係はなかったのか。

銀バスと言う乗合いバス
 昭和14年頃、タクシーを少し大きくした位の銀色をしたバスが2台あった。区間は湯迫の今の白雲閣の所と岡山市、栄町(電車道から東へ約20mの北側)の所まで。相生橋がまだ丈夫でなかったので旧鶴見橋を通っていた。何故か運用は短期間だった。奥山という気さくな運転手がいて中井の地鎮堂の少し北から.協同までバスの乗客がない時は乗せてくれた。又ある人は当時、はやりのアイスキャンデーを買ってきてくれと窓越しに頼んだこともあった。なんとも、おおらかな時代だった。

 昭和46年県道、原〜藤原線ができる前にいまの大きなバス(宇野、両備)が狭い中井の道を通っていたことがある。この時に用水の蓋をした。

焚き物
 太さ20cm位の雑木を仲間で買ってきてガンドウ鋸で引き大きなヨキで割っていた。重労働だった。この様にして、かなりの量の薪をたくわえていた。鍋等を炊くときは麦藁をよく使った。当時は二毛作だったので一年問使えるだけの量を毎年確保していた。スクモも風呂に使った。これを五衛門風呂の追いだきとしてくべていた。ぼつぼつ燃えてくるので終りまで保温できた。普通の藁はその他に使うのであまり焚かなかった。また製材所へ行き、おが屑を買ってきて専用の釜で焚いた。これはかなりの火力があった。
 最近は次第に煙突のある家はなくなった。サンタクロ−スも困るらしい。煙突から入ってくる神話はどうしたらよいか。それにしても風呂は五衛門風呂にかぎる。底から暖ってくるのは風呂としては最高のものであると思う。昭和38年1月4日からプロパンになる。

のつぼ
 昔の農家は自分の田の一角に必ず「つぼ]をもっていた。家庭用のトイレが一杯になればこれに移しかえていた。この当時、豆粕、牛馬の踏んだ堆肥以外にあまり肥料がなかったので人糞もよく使われた。特に、麦には下肥は必要だった。正月4日は大百姓は必ず麦に下肥をほどこしたものだ。市役所もトラックで運搬して来ていた。自然の渋理の循環を考えれば違和感はない。むしろ望ましいことだと思う。現在でも浄化センターから製法は変えられているが、処理された物が肥料として使われている。
 現代の様に化学肥料のみで本当によいのか疑問に思う。先に書いたように「のつぼ」に移してから1週間経過すれば下肥として使ってさしつかえない様になる。強烈な農薬、遺伝子組み替えの影響は本当に心配ないのか。よくわからない。ただ、人糞は汚いと言う概念だけで軽々な考えかたではいけないと思う。  

コタツ
 この地方は昔から「ヤマト、コタツ」と言って一人用の小さい(土で作った上に紙が張ってあるのがあった。何故かこれを「ネコ、コタツ」とも言っていた。堅炭を使っていたが次第に丸い形で炭をかためた野球のボールより少し小さいものを使いだした。それから豆炭と言ってもう少し小さい楕円型の物も使うようになった。各一個を入れておけば朝まで暖かった。火を使うので時々ボヤの騒ぎもあった。朝、「ハ釜」で炊いたご飯を木製の「オヒツ」にいれ、これをコタツのはいっている布団の中に入れていた。昼、出してたべる温かいご飯の味は格別においしかった。
 暖房はこれ以外に湯タンポ(カラツ製の、次がブリキ製のもの)があった。これは火の心配はないので子供、病人用として使った。この他に部屋のなかに堀コタツと言って家族全員があたれる大きいコタツもあった。しかし、あまり実際には使われていなかった。それから電気コタツになったが、当初はサーモスタットの不良によりボヤ騒ぎも時々あった。
 そして次第に今日の様に赤外線のものになった。今の子供が箸の使いかたが下手なのは火箸を使わないからだと思う。火箸を使えば指が熱いから自然に箸の上の方を持つようになるからだ。昔の者が器用なのはうなづける。

県道、原−藤原線
 標記の場所は,昔は河道だった。この地区から清水の(黒住教)の南に抜けていた。この為、梅雨時等大雨の時は田越しの川になっていた。だからこの地区の者は川田とよんでいる。新屋敷道とこの県道との交差点の東側に南北に溝があり(今は西側の歩道の下に暗渠になっている)これに石橋がかかっていた。大雨の時はこの石橋の上を水が流れていた。地番443のあたりで田面から平均80p高くなっている。
 平成6年7月7日16時50分から1時間あたり73.5mmの降雨量があった時、中井用水路は一杯になり、また、農道を越して、田に水が入った。昭和9年9月の大洪水の時もこの様なことはなかった。思うに、昭和40年咲から住宅が増え、道の割合に用水路の整備がなされなかったのが原因ではなかろうか。いわゆる内水型の被害が出はじめたのではないか。と考える。

電 気
 昭和初期、一般の家庭には昼、電気がきていなかった。即ち、夕方、暗くなりかけて待っていると電気がつく。そして朝、明るくなりかけると電気は消える。だが、この当時でも昼、電気が来ていた家もあった。あの家は昼線をとっていると言う言葉はかなり裕福の意味ともかさなった。中井で2〜3軒だった。当時は白熱電球の20ワット程度のものだった。これでも結構明るかった。
 私は今でも昭和26年に買ったスタンドには白熱電球の40wを使っている。この光の暖かみがなんともいえない感じがするから。夜汽車で見る家のこの白熱光のなんと暖かいことか。
 昭和61年、親戚の婚礼に出席するため東京の三井クラブに行った時びっくりした。蛍光灯は全然使っていなかった。白熱燈だけ。非常に印象に残った。明治時代、親が勉強に使っていた卓上のランプが大事にしまってある。これがおもわない時に役立った。昭和9年9月の室戸台風により約1週間停電した時だ。
 この地区に初めて電気がきた時   大正10年 末
 一日中電気が来るようになった時  ? 年 月 日

 中国地方電気事業史、P193に、「…次第に供給区域を拡大し、大正10年の末には上道郡1町17か村…」とあります。

扇風機
 扇風機(主としてG.E製)は限られた家にしかなかった。当初、日本製の扇風機はハネのバランス、「芯」がうまくでず高速回転さすと羽の振動で扇風機全体が机の上を移動して困ったと聞いているが真偽の程はよくわからない。この当時の日本の技術はこの程度のものだったとの言か。

ガス鉄砲
 雀を追い払う道具。鉄砲そのものの恰好で長さは約1.5m、筒の太さは3cm位。アセチレンガス発生の容器(大型の水筒位)を肩にかけ細いパイプで銃に繋いでいた。引き金を引くとライターの着火の原理と同じでガスに点火し物凄い大きな音がしていた。筒先から勢いよく火も出ていた。操作する人は耳栓をしなければならなかった。鼓膜が破れた人もいた。米収穫の10月頃雀害を防止するため、その日の当番になった人は中井の農地の隅々まで歩いた。10分間隔位いで「パン!」といわせていた。昭和10年頃だったか。今偲べば非常に懐かしい音だった。(中井は固定式は使用しなかった)

年寄りが言っていた迷信まがいの事柄
1
「妙見につけたら、くるぞ!!」
 妙見とは中井から見て北西の方向の山。金山の方角。この方面の山に雨が降りだし白くなって見えなくなってくれば必ず中井の地区にも雨が降ってくるとの意味。農作業の時等、慌てて対処したものです。(昭和39年、89才で死亡した祖母から)

2
「五、七は雨。九が病。八つが日照りで、六つ、四つ時は風と知るべし」
 特に後半の文句は語呂がいい感じがします。地震があれば何か悪いことのおこる前触れか、昔の者はこの様に考えたらしい。即ち、五(8時、20時)、七(4時、16時)に地震があれば近い将釆、大雨があり今年は洪水があるらしい。九つ(12時)に地震あれば疫病が発生か。八つ(2時、14時)に地震があれば雨が少なく日照でお米が減収になるのか。六つ(6時、18時)、四つ(10時、22時)に地震があれば大風で台風の襲来があるかも。この様な解釈です。
 真偽の程はよくわからない。(昭和51年、78才で死亡した母親から)私は子供心に本気で聞いていた。母親は誰から聞いたものか。自分で考えたものではないらしいから。お月さんのなかに餅をつく兎がおるたぐいのものか。
 地震のことについてもう一言。子供の時、地震は、大きな、なまずが土の底に居て、時々これが寝返りをうつ時におこるのだと。揺れの大きな地震は頭の上、小さいのは尻尾の上だと、まことしやかに聞かされていた。かなり信じていた。話としては本当に面白い。

3
雷について(ごろごろ様と言っていた)
 子供の頃、雲の上に雷様の親子がおって、子供があばれて足を滑らし落ちるのが落雷だと聞かされていた。長い間、信じていた。