遊歩会
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旧山陽道を歩こう

旧山陽道の地図

今から1,300年以上もの昔、瀬戸内の山や川を貫いて一直線に続く大道が在った。都と九州の大宰府を結び、都からの官使や、唐・新羅・百済など、異国からの使者を迎えたこの道こそ、古代の山陽道です。この旧山陽道を一緒に歩きませんか。今回が7回目です。過去の6回で下関から姫路まで歩きました。今回は、姫路から〜西宮までの80kmを2日間で歩く予定です。一緒に歩きませんか。実施予定日:平成18年4月8日〜9日
〔4月8日は、舞子公園で野宿します。寝袋持参〕

神社・拝殿内部(高砂市)

姫路を過ぎると高砂市に入りる。高砂は、謡曲「高砂やーこの浦舟に帆を上げて」と、結婚式には必ず謡われる、お目出度い高砂神社が在ります。また尾上神社の「尾上松」初代は、豊富秀吉の三木城攻めで故死。現在のものは、5代目です。尾上神社は、その昔、神功皇后が航海の無事を住吉大明神に感謝したことから建てられたとされています。尾上神社は、国の重要文化財である「尾上の鐘」と、古くから歌に詠まれている「尾上の松」によってその名を知られています。

鶴林寺(加古川市)

加古川は、聖徳太子が7歳の時、この地で「高麗僧恵便」(こうらいえべん)から仏教の教えを受けた。天台宗の古刹(こさつ)鶴林寺は、太子が16歳の時に、精舎を建立したことが始まりとされる。太子町の斑鳩寺と共に、聖徳太子縁の地として篤い信仰を受けています。 隣の街明石は、日本標準時を設定する「子午線の町」で「明石天文台」があります。

須磨浦公園(神戸市須磨区)

神戸市に入ると間もなく、源平合戦の舞台となった「一の谷古戦場跡」が在ります。一の谷の戦いで、坂東武者 熊谷直実は、沖の船目指して逃げる平家の若武者を、格闘の末討ち取った。だが、それは我が子を思わせる美しい16歳の笛の名手、平 敦盛であった。直実は武門に生まれたゆえのむごい運命を嘆き手厚く供養した。平 敦盛首塚などがある。

旧居留地(神戸市中央区)

江戸時代は、兵庫津が畿内の表玄関であったが、アメリカ総領事ハリスにより「日米修好通商条約」が調印され、神戸港が開港された。それ以来 神戸が、表玄関と変った。1859年、日米修好通商条約が調印されたが、朝廷と折り合いがつかず、神戸開港は9年後の1868年の元旦に開港された。

風見鶏の館(神戸市中央区)

居留地造成は、幕府の倒壊で中断したため、応急処置として、走水・二つ茶屋・神戸・宇治野・花熊・中宮・生田宮・北野の八ケ村を雑居地とすることを1871年(明治4年)決めた。雑居地は、居留地竣工後も解消せず、現在の異人館地区となっている。神戸は、異国情緒が溢れる素敵な町です。

住吉神社(東灘区)

灘の生一本で有名な、神戸市東灘区に住吉神社がある。この地域は阪神淡路大震災の被害が大きかった地域です。万治2年に創業した「菊正宗酒造の酒蔵も震災でつぶされました。戦後の一時期だんじりの巡行が行われなかった時代もありましたが、現在では地曳きも復活し5月のお祭りには、だんじりの巡行・宮出・宮入が行われます。

西宮戎神社(西宮市)

京都からの西国街道と大阪からの中国路が出会う西宮を、山陽道の起点と定めた(江戸時代初期)。西宮宿には旅籠が64軒あり、人口は2千余人が住んでいた。西宮えびす神社の前に、灯篭型の道標が今も在ります。「灘の生一本」を生んだ酒造りの町、えびす信仰の総本宮として知られる門前町です。今回の終点。次回は、平成18年秋(10月頃)に京都御所まで歩く予定です。

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