森下町って

  森下町の歴史
 この町はもと上道郡国富村に属していたが、江戸時代(天正年間)、宇喜多秀家が山陽道(西国往来)を付け替え、南に迂回させて岡山城下に引き入れた時にできた旭川東岸にあった町人町で、城下町の山陽道東入口であった。
 北東から南西に延びるその山陽道に沿った両側の町で、南西に町人町古京町が続き、その他は上道郡国富村の田畑に囲まれていた。南部は国富村の枝村森下であった。町名は、森下地区の農家が町家になったため、地名をそのまま取ったと思われる。
 東の端に総門(東出入口)があり番所もあった。大門は毎夕五つ時(およそ午後8時)から明七つ時(およそ午前4時)まで閉めた。その間、通る人は小門をくぐった。番小屋は弘化5年(1848年)藩の許可を得て髪結床に利用し、作事は町負担となった(国富家文書)。現在総門跡には町内会の立てた案内板がある。
 1632年頃の「寛永城下絵図」には記載がなく、1648年頃の「慶安城下絵図」には森下町とある。
 江戸時代、町人町としての区分は外町で、中期以降の町組は中組の外町であった。天明8年(1788年)調べの問屋株は町内にはなく、寛政5年(1793年)の資料では坂口屋吉左衛門という銭屋が一軒あった(岡山市史)。
 城下町での旅籠の営業は、江戸初期から西中島の独占であったが、寛政5年(1793年)、西出口の万町とともに旅籠営業が許可された。ただし、領内の者で一夜の泊まり客だけであった(池田家履歴略図)。寛政年間、森下町・万町に食物などの路上売りが許されている(市政提要)。銭屋、旅籠、路上売りの営業は旅人の利便を図ったものである。古京町とともにい草で作った笠、藺笠(あみがさ)が作られていた(備陽国誌)また名産として桃があった。
 宇喜多直家が岡山城修築の際、城郭内にあった日蓮宗蓮昌寺をここに移した。大伽藍であったので御堂と呼ばれ、その後同寺は小早川秀秋のとき(1600年〜1602年)外堀の西(田町)に移転したので、その跡が御堂屋敷と言って地名となって残っている。
名産の桃は、このあたりで作られていたため御堂桃と呼ばれた。
 岡山藩士の森下景端は、明治維新後、県の権大参事(のち大分県令)となるが、先祖は農家の出身で、士分となったとき出身地の地名を姓にしたと言われている。貞享元年(1684年)の町の面積は1町4反7畝。嘉永7年(1854年)の戸数は129戸、人口は364人、うち男182人、女182人であった。
 明治4年(1871年)旧森下町に区政が敷かれたとき、第5区4番小区に属した。同44年(1911年)西大寺軽便鉄道の西大寺−長岡間が開通。翌年同45年(1912年)森下駅がつくられた。大正4年(1915年)後楽園まで延長されるまでは岡山の起点であった。昭和37年(1962年)廃線となった。
 昭和20年(1945年)の空襲では、町内の人が必死で消火作業に努め、また風向きも幸いして大部分が戦災を免れた。現在も一部に古い民家が残っている。同42年(1963年)住居表示事業で、古京町と国富の一部を含めて新しい町域となった。現在、近隣商業地域である。
                                               (『岡山地名事典』より)


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