<中井町2丁目の歴史とお地蔵さま>

山陽本線脇のお地蔵さま

                      中井町2―3―33 小松原文雄

 私が現住所は住みついたのは、終戦後の昭和23年2月でした。

 当時の中井町2丁目は「岡山市北方字土手(どて)」とか、「新畑(しんぱく)」
などと呼ばれた土地で、岡山市兵団から北へ、山陽本線を横切って一筋の堤防が伸
びていた土地でした。
 この堤防は昔から「美作街道」と呼ばれた交通の要路で津山のお殿様のお駕籠が
「下にー、下にー」と通っていたそうです。

 堤防の外側(東側)には、旭川の河川敷に外堤防があり、輪中(わじゅう)のよ
うな中に倉敷紡績岡山工場が鎮座していました。

 兵団から伸びてきた一筋の堤防は、現在の御野幼稚園の前あたりから東に大きく
カーブして、御崎宮の所で外堤防に合流していました。

 その堤防が不要だということで切り下げられて、現在の中井町2丁目のメインス
トリートになって、地区の様相が一変しました。

 私の家も、高い堤防と西川用水に挟まれた場所でしたが、間口が十一メートル道
路に面した土地になり、まことに便利になりました。

 堤防が切り下げられる前までは、山陽本線を横切る所に踏切があり、よく事故が
起きていた上に、飛び込み自殺の名所だったようです。

 その事故防止を祈ってか、踏切のあった場所に写真のようなお地蔵さまが2体、
線路の北側に、南を向いて並んで立っています。

 市内(南)に向いて立っているのは、南から来た人がよく事故に遭ったのか、飛
び込み自殺をする人に『思いとどまりなされや』と話しかけて呉れていたのではな
いかと思われます。

 そのお陰で、それから後には飛び込み自殺が無くなり、今じゃそんな所にお地蔵
さまがあるなんて誰も知らないでしょう。

 天満屋ハッピータウンを南に通り過ぎて、山陽本線のガードをくぐる手前で西を
向いて線路を見上げたら、そのお地蔵さまが見えますが、
危険ですから、線路まで
は上がらないでください。

 ご自分が、ご冥福を祈られるようになったら申し訳ありませんから。